23.楓の涙



 家に帰ってからも、俺とエドワードはぎくしゃくしたままだった。
 早い帰宅に母さんは怪訝な顔をしていたが、エドワードは黙ったまま部屋に行ってしまい、俺も逃げるように自分の部屋に篭った。
 でも、音楽をかけてもまるで耳に入ってこないし、雑誌を読んでもちっとも頭に入らない。そのうちどちらも煩わしくなって、いつの間にか俺は眠ってしまった。

 ふわふわと体が宙を漂う感覚。曖昧な視界と、遠くから呼ぶ声。
 こないだも、これと同じ夢を見た。
 あのときは、姉ちゃんが俺を起こそうと呼んでいたからあんな夢をみたのかと思っていたけど。
 聞き覚えのあるこの声は、姉ちゃんの声とは違う気がする。
 この声は――

 頼りない、小さな声を聞こうと耳を澄ました瞬間、部屋の扉が勢い良く開く音が俺を現実に引き戻した。
 驚いて跳ね起きると、開いた扉の向こうには、姉ちゃんが立っている。
「……今、呼んだ?」
 半分寝ぼけながらそう尋ねるが、姉ちゃんは何も答えないまま、ずかずかと部屋に上がってきた。
 それに慌てると同時に、何故仕事のはずの姉ちゃんがいるのだろうと一瞬頭が混乱するが、気付いてみれば部屋の中は既に暗かった。俺は結構長い間寝入ってしまっていたらしい。
 けど、そんな半端な時間に寝てしまった気だるさは、俺の目の前で膝をついた姉ちゃんの一言により吹っ飛ばされた。
「あんたさ、リツカのこと、好きだったよね?」
「……はぁ?」
 エドワードに続き、姉ちゃんまで。今日は一体なんだと言うんだろう。
 からかっているのか、それとも何かの冗談かと思ったが、姉ちゃんの目はいつになく真剣だった。見たこともない姉ちゃんのそんな顔と、質問の内容に困って目をそむける。
「いつの話だよ」
「今は? もう好きじゃないってことはないでしょ?」
「今って……、そんなの聞いてどうすんだよ。姉ちゃんに関係ないだろ」
 俺はぞんざいに言い捨てると、立ち上がって後ろを向いた。この話題を終わらせたいからそうしたのだけど、それがわからないわけでもないだろうに、姉ちゃんは構わず俺の背に言葉を投げてくる。
「じゃあ、エドちゃんが好きなの?」
 答える気はないのに、馬鹿正直にかっと顔が熱くなる。こんな顔で振り返ることもできず、俺は背を向けたままでもう一度突き放した。
「だから、関係ないって――」
「関係あるよ。弟だもん」
「それこそ今関係ないだろ!」
 どんなに拒否しても食いついてくる姉ちゃんは、俺の言葉を受けて大きなため息をついた。
「あんたなんにも考えてない。あんたがエドちゃんを好きでも、エドちゃんに戸籍がない限り結婚はできないんだよ。そしたら子供だって作れない。普通の家庭も築けないし未来もないのに、それであんたたちは幸せになれんの? それに――」
 部屋に響いた鈍い音に、姉ちゃんが言葉を途中で止める。俺が叩きつけた拳の向こうで、壁が無残にめりこんでいた。
 俺は姉ちゃんのことが苦手だけど、嫌いとまで思ったことはない。でも今この瞬間においては、憎いとすら思った。それでも、振り上げた拳を姉ちゃんに下ろすのは、すんでの所で耐えた。
「――で?」
 すっかり顔の熱は冷めきっていて、姉ちゃんの方を振り返る。口から出た声は、自分でも聞いたことがないくらい冷淡だったけれど、それでも姉ちゃんは怯まなかった。立ち上がり、睨みつける俺を負けじと俺を睨み返し、そして両手で俺の胸元を掴みあげる。

「リツカ、あんたのことが好きなんだって」

 けれど零れた声は、そんな表情と行動とは正反対に酷く悲痛だった。
 今度こそ怒りも苛立ちも、全てが俺の中から吹っ飛んでいく。
 胸倉を掴む手は、すぐに力なくするりと剥がれた。
「あたしだって、エドちゃんのこと好きだし家族だと思ってるよ。でも、リツカのことも大事なの。だって小さい頃からの親友なんだもん。あたしも、もうどうしていのかわかんないんだよ!」
 そう言うと、姉ちゃんはぼろぼろと涙を流して泣きだした。
 でもそんなことを言われたって、俺はもっとどうしたらいいのかわからない。けれど泣きながら俺の部屋を飛び出していこうとした姉ちゃんが扉を開けた瞬間、俺も姉ちゃんも硬直した。
「……エドワード……」
 部屋の外にエドワードが立っていた。呻くように俺が名を呼ぶと、姉ちゃんがびくりと肩を跳ねさせる。
 ややあってエドワードが口を開きかけたが、それに気付いた姉ちゃんは、彼女を押しのけると俺の部屋を出ていった。
 姉ちゃんの部屋の扉が閉まる音が、俺とエドワードの間をすり抜けて行った。