白き村の吸血鬼 1



 その、ほぼ同時刻。
「――――寒い!!!」
 ノルザに一件しかない寂れた宿の一室で、ティルは吼えていた。
 ドレス一着でどこだか解らない場所に放り出され(自業自得である)、とにかく北に向かって進路を取ったはいいが、飢えと寒さで遭難しかけた。それに比べれば、今の状況は格段にマシだと言える。しかし、リルドシアは年間を通して温暖な気候だ。ティルは寒さに慣れていなかった。
 急に馬が勝手に走り出し、あれよあれよという間にノルザについて二日経つ。腹を満たしてから村人にそれとなく探りを入れてみたが、セラ達がノルザに着た気配はなかった。
 状況を考えれば、あのまま女達を置き去りにしてティルを追うのは考えにくい。騎士団の一部は伯爵の悪事に加担しているようだから、下手をすれば女達の保護を騎士団に要請して一悶着起こしているかもしれない。そうすると到着はかなり遅れるだろう。そもそも、セラ達が助けに来てくれる保証もない。
「ボーヤなんか、全力で止めてそうだな」
 襲われた時点で、噂がただの噂でないことはわかった。騎士団が癒着しているほどの事態だ。ライゼスがセラの深入りを良く思わないだろうことは想像できる。だが別にティルも助けにきて欲しいとは思っていない。それでは立場があべこべだ――今に始まったことではないのだが。
 合流する目的で宿を取ってはいるが、そろそろ動こうかとティルは思い始めていた。
「夜が明けて、セラちゃんが来ないようなら、伯爵に会いにいくかな……」
 行こうとする意志はある反面、気は重かった。それに、あまり色々考える気力もなかった。その、理由。
 だがそこまで行き着く前に、唐突に現実に引き戻される。
 全身を緊張させて、ティルは抱きかかえていた刀を握りなおした。鍵が外から開けられる音がして、扉が開いたのはほぼ同時。
「――なんですの? まだ夜明け前ですわよ。就寝中の淑女の部屋に押し入るなど、この村の方は礼儀どころか常識も知らないようですわね」
 機嫌の悪さをそのまま言葉に乗せる。押し入ってきた相手がランプを持っていたので、人数や彼らの様子は探るまでもなかった。男が三人。いでたちからすれば村人のようだが、ティルは正直焦っていた。
 着替えがないので、ティルはドレスを脱いで毛布にくるまっていた。この格好を見られれば男だとばれるかもしれない。できれば伯爵に会うまでそれは免れたいが、ただの村人であれば、斬り捨てて口を塞ぐのも忍びない。
「伯爵様がお呼びだ、一緒に城に来てもらう」
「……わかりましたわ。すぐ支度をしますので、部屋を出て下さいません?」
「逃げようなどとは思うなよ」
 幸い、彼らは部屋を出てくれた。ほっとして、ティルは刀を握る手を緩めた。
 このまま逃げることはできるが、どの道夜が明けたら出向くつもりだったのだ。セラ達とは合流できていないが、ティルは大人しく従うことにした。
 ベッドから出て、のろのろとドレスを纏う。そして、髪を直すために明かりを持って鏡にむかった。手櫛で整えて結い上げると、十七年間見慣れた姿がそこにあった。途端、もやもやとした黒い感情が湧きあがってくる。それも、慣れたことだった。だがどちらも、ここしばらくは縁遠いものになっていただけに、今までのように慣れで済ませることも難しい。
 宝石のような青い瞳。眩い銀の豊かな髪。ティルは手を握り締め――そしてそれを鏡に打ち据えた。無機質な、固く鋭い音が部屋に響く。それが部屋の外にいる男達に聞こえて怪しまれないかなどと、そんなことすらもう考えられなかった。衝動のまま、震える手が鏡を割っていた。思考など、とっくに正常に動いていない。
「――恨むぜ、母上――」
 かすれた声が喉から漏れる。
 顔も髪も、すべてが厭わしかった。母とそっくりだと度ある事に称えられた自分の全てが、ティルには疎ましくて仕方なかった。いっそ死のうかと何度も思いながら、そして、幸いにもその機会に何度も恵まれながら、しかしそれに甘んじることができなかった。心のずっと奥が、生きることへの渇望を捨ててくれなかったのだ。
「己の産まれを忌み、人を妬み羨み、己の不幸は他人の所為……所詮俺も同じか」
 それを言ったのは、翳ることを知らない、どこまでも真っ直ぐな瞳をした少女だった。そして、たった一言で空っぽな自分を簡単に満たしてしまう、どこまでも愛しい存在。
彼女がいるから、自分の存在にも意味を持てた。彼女がいるから、そんな小さい自分でも受け入れられた。
「……セラちゃんに会いたい」
 自分でも情けなくなるほど、小さな子供のような声だった。

 ■ □ ■ □ ■

 疾走する馬の上で、気まずい時間を過ごすこと数時間。途中吹雪にも合ったが、凍えることも、雪深い地面の上で馬が足をとられることもなく。暗い空と真っ白な地面の二色の中を走って走って、ようやく視界にそれ以外のものが入った。
「村だ」
 しばらくぶりにセラが言葉を発する。その後ろから前を覗き込むようにして、ライゼスも前方を見据えた。ぐんぐんと近づいてくるそれは、確かに村だった。
「方向と時間的に、ノルザ村に間違いありませんね」
「そうか。じゃあもう喜んでもいいか?」
 確信を持ったライゼスの呟きに、セラはまったく喜ばしくない声で皮肉を言った。彼女にしては珍しい。おそらくまだ機嫌が悪いのだろう。いつもなら笑って流すか、ため息をついてくどくどと返すかしているライゼスだが、今はどっちもする気にならなかった。ただ村に着くのを待っていたのだが、
「……やっぱり少し早かったみたいですよ。喜ぶのは」
 皮肉を言いたいわけではなかったが、事実そういう結果になってしまった。村が一望できるほどまで近づくと、その村の向こうに小高い丘が見え、その上に古城が見えた。その吸血鬼伯爵とやらが期待を裏切らない人物であるならば、おそらくそれが彼の居城であろう。それを裏付けるように、馬は村を大きく迂回するように進路を変えて、直接古城へと向かい始める。
 そこまでくるとセラもライゼスの言いたいことに気付き、思案顔になった。
「直接城に行かれたら困るな。まだ出方も考えてないし情報も少ない。それに、もしかしたら、ティルが自力で脱出して村で待っているかも」
「上出来です」
「馬鹿にするなよ。……だが馬が制御できない」
 もはや手綱を引いても馬は言うことを聞かなかった。これでは止まることもできない。
「飛び降りましょうか。この雪なら怪我はしないはずです」
「わかった」
 ライゼスの提案を受けてセラが身構える。だが自分で飛び出す前に、後ろから抱え込まれ、抵抗する間もなく体が馬から離れる。白い飛沫が舞い上がり、だがなんの衝撃もなければ、雪の冷たさもほとんどない。確かに、ライゼスは雪をクッションにして飛び降りたが、セラはそのライゼスをクッションに飛び降りた形だった。
「ッ、また、お前は……!」
 ライゼスの手を払い、セラが起き上がる。機嫌の悪さは最高潮のようで、怒りを隠そうともしない顔を見てライゼスは嘆息した。マントについた雪を払いながら、ライゼスもまた立ち上がる。といっても、雪が深いのでなかなか上手くいかない。もっともそのおかげで、あの速さで走る馬から飛び降りたというのに、怪我はなかったが。
「前から言っているが、私を特別扱いするな!」
「……特別扱いしたつもりはありませんが」
「なら私を庇うな! お前は言ってることに矛盾が過ぎる! ずっと傍にはいれないから一人でしろとか、かと思えばどうでもいい世話を焼く。一体どっちなんだ!」
「僕がいなくても、姫が一人でできることは知っていますよ。さっきのは冗談です」
「…………」
 呆れ混じりのセラの声に応えると、彼女はさっきよりもずっと傷ついた表情をした。失言だったことはわかったが、その理由まではわからない。セラの機嫌が悪くなることは予想できたが、万一セラが怪我をしたら、と思ったら考える前に体が動いてしまっていただけだ。
「セラ――」
 それを説明しかけて、だが鋭い声に阻まれる。
「私は、お前を臣下だと思ったことはないと言っただろう。守ってもらうために傍に置いてるんじゃない」
「じゃあ、何の為に僕はいるんですか?」
 そして、言おうとしていた言葉は、違う言葉になってしまった。言ってしまってから、単なる八つ当たりだと自覚して後悔する。どうでもいい世話しか焼けない、自分への苛立ちにすぎなかった。だがそれに気付いてももう遅い。
「王家に仕える目的で私の傍にいるのなら、もういい。どうせ名ばかりの側近だ」
 冷たくセラが吐き捨てる。その口調は酷くぎこちなく、無理をしているのだとライゼスには容易くわかる。こちらを傷つけようとしたその言葉で、だが傷ついているのはセラ自身なのだということも。そして、ライゼスはその原因を作ったのが自分なのだということにもようやく気付いた。
「セラ。やっぱり、聞いていたんですね。あの人と、僕の会話」
 セラは答えなかったが、表情でわかった。
「……行こう。今は時間が惜しい」
 そう言ったのは、はぐらかそうと思ったわけではないだろう。ティルの安否が気がかりなのは事実だ。だが、この話をひとまず終われたことに、理由はどうあれライゼスはほっとしていた。