攫われの偽姫 5



「何でもあります」
「は?」
 何でもないですと言おうとした矢先、そうではないことに気づいて、咄嗟にライゼスは言おうとしていた言葉を変えた。結果として意味の通っていないその言葉に、セラが首をかしげる。
「今まで気付かなかったけど、この馬……普通の馬じゃない」
 不思議そうなセラに、ライゼスは今まで乗っていた馬を指して見せた。伯爵の馬車を引いていた馬で、残った片割れを勝手に拝借しているものだ。
 ライゼスにそう言われてみて、セラは改めて馬を見やった。一見するだけで、確かに普通でないことはセラにもすぐにわかった。様子がおかしい。一心に北の一点を見つめたまま、馬は微動だにしていなかった。目を覗き込んでみると、ガラス玉のように生気がなく、なんとも形容しがたい不思議な色をしている。
「凄く強い、魔法の力を感じます」
「え、この馬、魔法でできてるのか?」
 ライゼスの言葉に、セラは驚いて、改めてまじまじと馬を見た。そしておそるおそる触れてみる。今までずっと乗っていたのだから今更確認せずとも知っているのだが、温かく、毛の質感も今まで触れてきた馬と何の変わりもない。
「いや、馬自体はさすがに本物ですよ。魔法具が馬を操ってるんじゃないでしょうか。それにしたって充分凄い魔法ですけどね……」
 驚きをこめたライゼスの言葉に、だがセラは少し気抜けしていた。魔法のことなどさっぱりわからないから、何が凄いのかわからない。この馬が魔法でできているなら凄いと感心していたのに違うらしい。
「全然動かないけど大丈夫なのか? 夜が明けても走ってくれなかったら困るぞ」
 違うとわかったら、急にこの先が心配になった。一理あるセラの言葉にライゼスも眉根を寄せる。
「ちょっと、走らせてみようか?」
 ――と、セラが軽い気持ちで、馬の縄を解いた瞬間。その双眸にいきいきと生気を宿して、まるで長年の呪縛から醒めたように、馬は高らかにいなないた。そして、力強く大地を蹴る。
「ちょっ……!」
「セラ!」
 突然走り出した馬に、面食らっている暇もなかった。ここで馬に逃げられては困る。咄嗟にライゼスが手綱を掴み、そしてそのライゼスにセラがしがみつく。その間にも馬は素晴らしい勢いで加速していき、さほど大きくも重くもない二人の体は、簡単に宙へと舞った。
「ぐっ……!」
 咄嗟にライゼスは、セラが落ちないように片手で彼女を抱えた。手綱をつかんだもう片方の手と腕が悲鳴をあげた。この体勢を続けるにはいくらなんでも無理がある。長くはもたないのは目に見えていた。だが、何があってもセラを離すわけにはいかない。苦痛の叫びをあげながらも、セラを抱える手に力を込めたライゼスだったが、すぐにその手からは重みが消えた。ぞっとしてそちらを見る。一瞬最悪の事態を考えてしまって背筋が凍ったが、顔を向けるとセラはちゃんとそこにいた。冷静になれば、彼女を抱えている感触は確かにある。
 セラはすぐに体勢を立て直して、手綱に手を伸ばし、鐙に足をかけていた。重みが消えたのはそのためだろう。そこから彼女が器用に馬によじ登り、馬上の人となるまではすぐだった。
「ラス」
 差し出された彼女の手に掴まると、その後ろへと誘導される。ようやく馬の背に座れてほっとしていると、
「しっかり掴まってろよ」
 こちらを振り返ったセラが、意地の悪い笑みを浮かべて、楽しそに言う。前に座ることができて満足なのだろう。ライゼスは苦笑したが、今更どうしようもないので大人しく返事をした。セラが満足気に目を細める。だが一段落ついてしまえば、今度は一抹の不安が頭を過ぎった。
「どこにいくんだろう?」
「まあ、ノルザだと信じるしかないですね」
 その不安をそのままセラが口にすると、後ろからは投げやりな返事が返ってきた。ライゼスも同じ懸念を抱いてはいたが、馬は一応北に向かっているようだし、伯爵の持ち物であることを考えるとノルザに向かっていると楽観してもよさそうな気はする。
「おそらく、一定時間人の制御を離れると、持ち主のところに帰るような魔法具なんじゃないでしょうか」
「へえ、便利だな」
「――しかもそれだけじゃないですね」
 言葉こそ冷静だったが、隠しきれない興奮を含んでライゼスが続ける。
「こんなに早い馬、僕は見たことありませんよ。それに、寒くないと思いませんか」
「そういえば……」
 この陽が落ちた時間に、この速さで疾走しているのに、体に当たる風は穏やかだった。決して暖かくはないが、苦痛なほど寒くもない。さっきから何か違和感を感じていたが、その正体に気づいてセラは目を丸くした。
「何にしろ、ノルザに向かっているならこの速さです。夜明けには着きそうですね」
 ライゼスがそう言うと、こちらを振り向いたセラが、ぱあっと顔を輝かせた。単純に早く着けることを喜んだのだろうが、ライゼスに言わせれば喜ぶのは時期早尚だと言わざるを得ない。
「喜ぶのはノルザについてからですよ、セラ。それに着いたところで、どうやって伯爵に会うんですか?」
 もちろん、ドレスは置いてきてしまった――持っていたとしても、さっきのドタバタの中、持ってこれたとも思えないが。思案するライゼスに、セラも一瞬考えたが、
「短慮な私にはそこまで考えられないからな。その辺は頼りにしてるよ、ラス」
 それと同じくらい一瞬で放棄する。
「……言いますね。でも、僕もずっと傍にいられる訳ではないんですよ? 少しは自分で考えることも覚えてくださいね」
 冗談交じりのつもりだったのだが、こちらを向くセラの目が、一瞬寂しげに翳ったように見えて、ライゼスはドキリとした。だが何かを言い繕おうとして口を開く頃には、セラはもう前を向いてしまっていた。
「努力するよ」
 そう返してきたセラの声は苦笑を含んでいたが、顔は笑っていないことがなぜかわかってしまう。視界を占めるセラの背中がいつもより華奢に見えて、ライゼスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。しかしその正体が何なのかまではわからず、それからはただ沈黙のみが馬上を支配していた。