隣のベッドから兄が起き上がった気配で、ティラは目を覚ました。
いつも起こすまで爆睡しているのに珍しいことだと、ティラもシーツを除けて起き上がる。
「今日は随分早いのね、兄さん」
ベッドに腰掛けながら声をかけると、リゼルは大真面目な顔でこちらを振り返り、至って真剣な声を上げた。
「俺の美人アンテナが反応した」
呆れた、と呟いてティラは肩を竦めた。
この兄は、酷く女顔で女装が趣味の癖して、酷く女好きなのである。そして酷くシスコンだ。
重複し難いと思われる幾つかの属性を、見事に兼ね備えた厄介な兄に頭を痛めていると、彼は慌てた様子で駆け寄ってきた。
「でも誤解するな、ティラ。ティラより可愛い女はいない」
「誤解しているのは兄さんよ」
「妬くなよ。お兄ちゃんも辛いところだが、お兄ちゃんはティラとは結婚できないんだ」
「何の話か知らないけど、早く彼女を作ってくれた方が私は安心だわ」
できないと思うけど。
後半の呟きは、最後の優しさで溜息と共に飲み込んだ。
「なんでもいいから早く行きましょう。美人さんが逃げちゃっても知らないわよ」
代わりに出てきた欠伸を片手で押さえながら、ティラはベッドに掛けていたマントをもう片方の手で取った。
ティラとしては美人などどうでもいいが、昨日兄が騒ぎを起こしたせいで食事を十分に取れず、小腹が空いていたのだ。早く朝食にしたかった。
果たして兄が尻尾を振って駆け寄っていった相手は、兄に負けず劣らずの美人だった。これにはティラも驚いた。
まず、銀髪。別段、酷く珍しいというわけではないが、ありふれているわけでもない。それだけで結構目を引く。
加えて、紫水晶のような瞳。
今、兄妹が旅をしているこの大陸では、色んな人種や民族がごった混ぜになって暮らしている。その上混血も進んだものだから、髪の色も目の色も肌の色もとりどりだが、その中にあって銀髪紫眼というのはリゼルもティラも初めて見た。
さて、最高に人目を引く人物が二人も並んでしまったわけだが、ティラの危惧に反して食堂は静かなものだった。何のことは無い、まだ朝食には早い時間で、皆眠っているだけなのだが。
「隣いいですか、綺麗なお姉さん」
そんなせっかくの静かな朝食を、兄が台無しにする。昨日自分がキレた相手と大差ない台詞という自覚はあるのだろうか。しかも返事を待たずに座っている。頭を押さえながら、ティラもそっとその隣に座る。
「朝食くらい静かに食べたいと思ったことはないか?」
だが、美女が溜息交じりにそんな言葉を吐き出すので、ティラは慌てて席を立った。
「あの、すみません。兄がご迷惑を」
「――兄」
リゼルを通り越して、紫の瞳がティラの方を射抜く。美貌には兄で慣れているティラだが、そのあまりの美しさに一瞬たじろぐ。それも無理はなく、リゼルとは違って彼女は正真正銘の女だし、歳の頃も大人の美しさを備えている。
「似てない兄妹だな」
ふっと彼女は苦笑した。だがその言葉に、一瞬兄妹のまとう空気が変わったことに気付き、女はそのどちらからも視線を外すと目の前のサラダをつついた。
「俺はリゼルで、妹はティエラと言います。名前を聞いてもいいですか?」
美女の気の無いそぶりもなんのそので、リゼルが明るい声を上げる。空気を読むということは辞書にない。
結局彼女は、兄妹に朝食が運ばれて来る頃には自分の皿を綺麗に空にして、こちらに微笑ひとつだけを残して席を立った。
はぁと息をついて、ティラが運ばれてきたクロワッサンにかぶりつく。
「綺麗な人見たらとにかく軟派するのやめなさいよ。相手も迷惑でしょう」
それを飲み下してから兄をやんわり嗜めると、ミルクを一気飲みしたばかりの兄が血相を変えてこちらを見てきた。
「ティラ! 嫉妬してくれてお兄ちゃんは嬉しい」
「だから違うってば」
口の周りについたミルクを拭うのと黙らせるのと、二つの目的で兄の口にナプキンを押し当てていると、さっきの女性が旅支度を整えて階段を下りてきていた。
「もう行っちゃうみたいね」
「追おう♪」
ミルクを飲もうとしていた手を止め、ティラは「は?」と素っ頓狂な声を上げて兄を振り返った。ミルクを飲むタイミングがもう少し早ければ、吹き出していたところだろう。リゼルはパンを口の中に押し込んで、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「なんで!?」
「ミステリアスな美女、気になるじゃないか。どうせすることないし、追わなきゃ損損」
言うなり兄は飛び出して行く。
荷物など身に着けているものしかないし、自分達も朝に発つつもりだったから支払いは終えている。だからと言って急すぎる兄に閉口しながら、せめてティラはもうひとつ、パンを口に捻じ込んだ。