05:大学時代3


 悠二が帰宅できたときには、日が変わってしまっていた。
 鍵を開けて家に上がると、こんな時間であるというのにダイニングからは灯りがこぼれている。
「お帰り、悠二」
 ダイニングテーブルで雑誌を読んでいた母が顔を上げた。その向かいの席には、ラップをかけられた夕飯がある。
「夕飯、温めようか?」
「……いい、自分でやる。てか、俺の夕飯は要らないっつってるだろ」
 皿をレンジに突っ込みながら、悠二はぶっきらぼうに述べた。いちいち帰りを待たれると夜遊びがしづらくなるというものである。
「美咲ちゃんが電話くれたのよ」
 母の一言に、悠二は眉根を寄せた。お節介もいいところだ。
 たしかに言われてみれば、チャーハンにサラダ、スープと、いかにも急いであり合わせで作ったような献立だ。いつ電話したのか知らないが、美咲に会った時点で既に午後八時だ。夕食はもう済んでいただろう。
「ああ、そうだ。美咲ちゃんと言えばね」
 黙って温めたチャーハンをかきこんでいると、おもむろに母が立ち上がり、大きな封筒を手にテーブルへ戻ってきた。
「これ、悠二にって。こないだ持ってきてくれたのよ」
「……」
 封筒に「警視庁」の文字が見えて、手が止まる。中を見なくとも、大体見当はついた。
「悠二、警察官になるつもりなの?」
「まさか」
 一言で答える。
 母がそう言うところを見ると、やはり中は警察試験の願書なのだろう。今日久々に会う前から母にこんなものを渡しているとは、ここまで来るとお節介どころの騒ぎではない。悠二はスープを飲み干すと、空になった皿を重ねてシンクへ置いた。
「ま、お勧めはしないけどね。じゃあ捨てちゃっていいのね?」
「……おやすみ」
 母の問い掛けには答えず、悠二は就寝の挨拶だけしてダイニングを出た。

 散らかり放題の部屋に戻ると、悠二はベッドの上の服やら何やらをかきあつめて床に落とし、ぐちゃぐちゃのシーツの上にごろんと寝転んだ。
 春には大学四年生になる。それを考えると、嫌でも就職の二文字が頭に浮かんでくる。
 楽観的に考えれば、まだ丸一年ある。しかし警察試験を受けると考えるならば、試験は夏だ。あまり時間があるとは言えない――
「――くそっ」
 そんなことを考えている自分に気付いて、悠二は毒づき、寝返りを打った。
 思い返せば、母からの「警察官になるのか」「願書を捨てていいのか」という質問に対して、どちらも「ならない」「いらない」と即答できていない。警察官になった自分も想像できないが、サラリーマンをしている自分はもっと想像できなかった。
 焦燥と苛立ちばかりが募り、眠ってしまいたかったが、とても眠れそうにない。
 ため息と共に起き上がり、煙草を取り出す。だが、火を付ける前にふと思い立ち、悠二は煙草を咥えたまま部屋の扉を開けて顔を出した。向かい側にある春紀の部屋からは、まだ灯りが漏れている。
 扉を開けると、春紀が驚いたようにこちらを振り向いた。
「何?」
 春紀は机に向かい、その机には参考書やらノートが広げられている。やはりこんな時間まで勉強していたらしい。
「……全国一位って、やっぱそんくらい勉強しないとなれないもんなの?」
「別に。ただ、してないと落ち着かないから」
 勉強してないと落ち着かないなど、何かの病気ではないかと言いたくなる。
 だが思い返してみれば、中学受験の頃は自分もそうだったかもしれない、と悠二は当時のことを振り返った。
「まあ、わからんでもないか」
「なら兄さんも少しは勉強したら。このままじゃ就職できないよ」
「おい、ナイーブな大学三年生にそういうこと言うもんじゃねーよ」
 容赦のない言葉が返ってきて、苦味をかみしめながらも茶化して答える。春紀は呆れたように、机の方へと向き直った。
「そんなに勉強して、お前は何になるつもりなの」
「……さぁ。僕はまだ高校生だし」
「まぁな。ま、お前なら何にでもなれるだろうな」
 その場に座り込み、悠二は気楽な声を上げたが、春紀から返事はなかった。嫌味に聞こえたのかもしれない。だが、事実であるのも確かだ。しばらく、沈黙が続いた。
「俺さぁ。ケイサツ入ろうかな」
 我ながら唐突だと思いながら、悠二はそんなことを口ずさんでいた。何故そんなことを急に弟に話したのか、自分でもよくわからない。だが、そう言うと、ノートに何やら書いていた春紀の手が止まった。
「いいんじゃない」
 鼻で笑われるかと思ったが、意外にも春紀は真顔でそう口にした。
「そうか? 向いてなくね?」
「向いてるよ」
「マジで言ってる?」
「うん」
 それこそ嫌味で言ってるのかと勘繰るが、春紀の声も顔も、至っていつもの通りだった。
 悠二はまた黙って春紀の部屋を出ると、ダイニングへと降りた。母はもう寝てしまったようで、姿はない。
 電気をつけると、テーブルの上にはまだ、願書が置いてあった。