04:大学時代2


「ありがとうございましたー」
 背中にコンビニ店員のけだるい声が掛かる。
 時計を見るとまだ午後八時で、煙草を買うついでに軽い夕飯も買っていた。こんなに早く帰宅するのはしばらくぶりだ。自分の分まで夕飯は用意されていないだろう。
 袋に手を突っ込んで煙草の箱を探すと、封を切って早速一本口に咥える。だがポケットを探ってもライターが見つからない。
「あれ……、っかしいな。置いてきたか?」
 どこかにないかと、体中のポケットを探っていると、不意に切羽詰まった声が辺りにこだました。
「ひったくり!! その自転車の人、ひったくりです!!」
 反射的に振り向くと、こちらに向かって猛スピードで突進してくる自転車が視界に入る。その後ろに倒れた女性、自転車に乗った男の手には、明らかに女物のブランドバッグがあった。煙草を咥えたまま、咄嗟にコンビニの傘立てからビニール傘を一本引き抜く。
 そして今まさに横を行き過ぎようとする自転車の前輪を見据え、激しく回るスポークの間を見定めて、素早く傘を差し入れた。
「……ッ!」
 急に前輪の回転が止まったことで車体が前につんのめり、自転車はそのまま一回転して乗っていた男が地面に投げ出される。
「ッ、このヤロウッ!」
 逆上した男はよろけながらも立ち上がり、懐からナイフを取り出した。
 野次馬が悲鳴をあげて、ばらばらとその場から逃げて行く。だが悠二はそれが見えていないように、足元に転がってきたさっきの傘を拾った。
「あー、やべ。曲がっちまった」
 よいしょ、と間延びした声を上げて、悠二は派手に曲がった傘を真っ直ぐに直した。そんな悠二をめがけ、男がナイフを振りかぶる。
 悠二はちらりとそれを一瞥すると、ぷっと煙草を吐き捨てて傘を構えた。ナイフを振り上げてがら空きになった男の胴を、傘が綺麗な軌跡を描いて抉った。
「胴ォ!」
 男がうめき声を上げて崩れおちる。その手からナイフが落ちるのを見て、悠二はそれを蹴り飛ばした。
「うわ。また曲がっちまった……やべえな」
 べこべこに曲がった傘と格闘していると、キィッと車のブレーキ音がする。パトカーだ。降りてきた警察官が、すぐにひったくりに手錠を掛け、パトカーの中へと連れて行く。
「悠二? 悠二じゃない!」
 悠二が黙ってその場を去ろうとすると、突然声をかけられた。振り返ると、もう一人警察官が車から降りたところだった。女性警察官だ。
「……誰?」
「お隣さんの顔をお忘れ?」
 忘れていた。
 というのは、無駄に怒らせるだけだから飲み込んだ。それに、本当に忘れたわけではない。
 家が隣でも、会うのは高校卒業以来だった。美咲が警察学校を卒業したとか、何々署に所属されたとかはたまに母が喋っていたが、その母とすら、最近は話をしていない。
 そう、忘れたわけではない。悠二の脳裏にある美咲の姿は、まだ十代で、セーラー服を着て、警察官になるのとこちらを振り返ったあの姿のままだったのだ。
「さっすが県大会優勝者! 警察で剣道指導できるんじゃない?」
「無理だし、警察官にもならねーし。俺、帰る」
「ダメダメダメ、あなた逮捕者だから。今応援呼んでるから待って」
 溜め息をつきながら、悠二はふと思い出してさっき捨てた煙草を拾うと、コンビニに入ってライターを買った。そして、こちらを見張るように仁王立ちで待っている美咲が視界に入らないように火をつける。
「ねえ、ほんとにならないの? 警察官」
 結局そうしたことに意味はなく、美咲はこちらに近づいて顔を覗きこんでくる。
「そういうのは、全国模試一位でT大内定様に言えよ」
「それ、春ちゃんのこと?」
 黙って煙草の煙を吐き出すと、美咲はふと黙り込んだ。いつもうるさいくらい話しかけてくる彼女には珍しく、怪訝に思って彼女を見る。
「なんだよ」
「……春ちゃん、無理してるんじゃないかな」
「は?」
 思ってもみない美咲の言葉に、悠二は煙草を口から離すと、美咲は思い詰めた顔でこちらを見た。
「だって、春ちゃんて、昔から器用なタイプじゃないでしょ? どっちかっていうと悠二の方がなんでも一番にやっちゃって、私は春ちゃんと一緒に、いつも悠二の後を追いかけてた」
「……」
「中学受験もそう。いつか追い越したかった。だから私、一番に警察になったんだよ。昔悠二、言ってたよね。大きくなったら、お父さんみたいな警察官になるんだって」
「んな、ガキの頃の話……」
 そうは言ったが、それこそ忘れたわけではない。
 ただ、周囲の期待に応えたかっただけなのか、自分の夢なのか、春紀に成績を越されてからはわからなくなっている自分がいた。だがだからといって、他にやりたいことが、夢があるかといえば――何もない。
「春ちゃんは、一生懸命悠二を追いかけていたんだよ。でも、悠二が立ち止まっちゃったから、今どうしていいのかわからないんだよ。だから目の前にあるものを、ただがむしゃらにやるしかなくて……私、わかるんだ。その気持ち」
 手に持った煙草がどんどん短くなっていく。なぜか震えそうになる手で再びそれを咥えるが、もうほとんどフィルターしか残ってなかった。
 ふと美咲が、くすりと笑う。
「セブンスター」
「んだよ」
「ううん。悠二らしいなと思って」
 それきり美咲は黙ってしまい、悠二はコンビニの灰皿に煙草を捨てた。パトカーのサイレンの音は、すぐ近くに迫っていた。