05:深夜の銃声


 莉子と連れだって夜道を歩きながら、真夏は早まったことをしたと後悔し始めていた。店内の空気も気まずかったが、女の子と二人きりという状況はそれ以上に気まずい。おまけに、いつもは明るい莉子が今に限っては大人しいので、余計にどうすればいいのかわからなかった。
 だが、かといって一人で夜道を歩かせるわけにもいかなかったし、相当に酔いのまわった日野に任せるのも不安だ。これがベストだったとは思う。だが、ベストな対応ができるかどうかはまた別の話だ。
 さきほどから何度も話しかけようとしているのだが、全く話題が浮かばない。無難に流行りのドラマや映画の話でもと思ったが、刑事になってからは仕事が忙しくてご無沙汰だ。必死に話題を探し続けて気が遠くなってきた頃、ようやく莉子が口を開いた。
「……ごめんなさい。生意気なことばかり言って」
 だが彼女の口から出たのは謝罪の言葉で、余計に真夏を焦らせる。しばらく、「あの」とか「いえ」など、曖昧な言葉を繰り返したが、莉子が父親に叱られているのを気にしていると気付き、真夏は一度咳払いをして落ち着いてから声を上げた。
「そんなことありませんよ。莉子さんの推理はいつも的を射ていて、感心させられることばかりです」
「……優しいんですね。佐藤さん」
 そんな言葉に、どきりとする。ただでさえ、今まで何をしてもぱっとしなくて、褒められることに慣れていないのだ。唯一取り柄があるとすれば拳銃の腕だが、いかんせん披露する機会がない。そんなところに女の子から「優しい」だなんて言われたら、嬉しいを通り越して頭がパンクしてしまうのも無理からぬことである。
「や、優しいとかじゃなくて、別に慰めているわけじゃなく、本当にそう思ってるだけで……」
 ありがたく受け取っておけばいいのにテンパってしまう真夏を見て、莉子は「ふふ」と笑った。だがやはりいつもの莉子とは違う。処理が追い付かない頭を、真夏はどうにかフル回転させようと躍起になった。
「お父さんは、莉子さんを心配しているんですよ、きっと」
「だと思います。ああ見えて、父は心配性ですから」
 そう言って苦笑する莉子の顔には、ほんの少しだけ元気が戻ったように見えた。そのことが嬉しくて、会話を続けようと試みる。だがそれがいけなかった。
「そういえば莉子さんのお母さんは? 店では見たことないですが」
 その拍子に、ふっと莉子から表情が消えた。怪訝な顔をする真夏から顔を背け、足元に視線を落としながら莉子が口を開く。
「母は、死にました」
 聞いてはいけないことを聞いてしまったことを悟って、真夏は猛烈に後悔した。慣れないことなどするものではない。わかってはいたものの、いつもの莉子に戻ってほしいあまりに余計なことを話しすぎた。店主からも莉子からも、一度もその影が見えなかった彼女の母について、聞くべきではなかったのだ。
「あ、ごめんなさい。気にしないで下さい」
 後悔のあまり謝罪の言葉すら言えないでいる間に、莉子がそうフォローを入れる。情けなくなって、真夏はもごもごと呟いた。
「すみません。辛いことを聞いてしまった上に、気を遣わせてしまって……」
「ううん、そうじゃないんです。父からは死んだと聞かされているけど、多分母は生きてると思うんです」
 それきり、しばらく沈黙があたりを包み、足音だけが静かな夜にこだました。最初、真夏は、莉子がそう思いこもうとしているのかと思って黙っていたが、彼女はそんな感傷的なタイプではないような気もした。莉子が生きているというのなら生きているのではないか。その考えを肯定するように、ややあって莉子が言葉を継ぐ。
「私の心の中で、とか、そんなんじゃないですよ。母がいなくなったのは、私が十歳のときです。もし死んだなら、お葬式の記憶くらいあると思うの。でもそんなのはなくて、ある日突然消えるみたいにいなくなってしまったんです。父に、母はどこに行ったのか聞いたら、死んだって一言。変だとは思ってました、私も、きっとお姉ちゃんも。でも何も聞けなかったんです。父があまりに……辛そうな顔をしていたから」
 ふいに莉子が立ち止り、真夏も足を止めた。歩くことも喋ることも、先を急かせるような雰囲気ではなく、ただ真夏は黙って莉子の次の行動を待つ。そして次に莉子がしたのは、夜空を仰ぐことだった。
「だから、私、大人になったらお母さんを探そうと思って……」
「それで、莉子さんは色んなことを知っているんですね。刑事も顔負けなくらい」
 明るい声で莉子の声を遮ったのは、彼女の声が掠れていたからだった。泣いているのではないかと焦ったけれど、こちらを見た莉子の顔は、いつもの笑顔だった。
「ううん、単に昔から推理小説が大好きだったからかぶれただけ。それと……昔は家に法律の本とかいっぱいあって、絵本代わりに読んでたんです。子供向けの絵本って、なんかつまらなくって」
 それを聞くと、やっぱり莉子は天才だと思う。絵本より法律書が面白い子供など普通はいない。真夏も警察学校で、こと地方公務員法はみっちり勉強したが、楽しいと思ったことは一秒もなかった。ただ仕事だからやっていただけだ。
「莉子さんなら、すぐ見つけ出せますよ」
 我ながら安易な気休めだと思ったが、莉子は嬉しそうに笑った。ほっとしながら真夏が再び歩き出そうとした、まさにそんなタイミングで。  耳をつんざく乾いた音が、その歩みを遮った。
(……銃声!)
 一般人ならまず耳にすることがない音を、真夏は正確に断定していた。
「佐藤さん、今の……」
「莉子さんはすぐに家まで走って! 中に入ったら戸締りして、絶対に外には出ないで下さい!」
 それだけ言い残すと、真夏は音が聞こえた方に全力で走りだしていた。音はかなり近かった。