04:店主の憂慮


「あーーー、胸糞悪ぃ!」
 グラスを机に叩きつけて日野が叫んだ頃、真夏はあくびをかみ殺していた。
 正直もう帰りたかったが、日野は次から次にビールをあけて、管を巻いている。とても帰してくれる雰囲気ではない。
「そもそも、俺が査長止まりなのは単に試験勉強してないだけで、あいつが警視なのはキャリアで自動昇進だからだ! いちいち芝居がかったセリフ吐きやがって、気持ち悪ぃ!」
 機嫌が悪いのは、やはり弟が原因のようだった。先ほどから弟に対する不満をぶちまけまくっている日野を見て、真夏は春紀の用事が早く済まないことを密かに祈った。そんな真夏の胸中など知る由もなく、日野が瓶ビールに手をのばす。だがグラスの上でさかさまにしたそれはからっぽで、日野は舌打ちした。
「リコチャンおかわり!」
「はいはい」
 溜め息をつきながら莉子が立ち上がって、真夏は申し訳ない気分になった。こんな時間なのに莉子が店にいるのは、働いているからではない。試験勉強をしているのだそうだ。一人部屋がないので店の方が落ち着くらしい。だが、こんなに騒がしくては、姉妹がいようと家の方がいいのではないかと思う。おまけにビールを出したり酌をしたりまでしているから余計にはかどらないだろう。
「あの、莉子さん、すみません。なんだったら僕がやりますから」
「いいんですよ。もう今日の分は済みましたし」
 ビールを取りに行った莉子を追って真夏がそう耳打ちすると、莉子はにこにことそう答えた。けれどそれだったらもう帰って寝た方がいいだろう。なおも心配そうな顔をする真夏を見て、莉子はそういえば、と話を振った。
「日野さんの弟さんって本当に凄いんですね。あっと言う間に解決しちゃって。学校でワンセグで見てたんですけど、あんなにすぐ突入すると思いませんでした」
「頭イカレてるだけさ。犯人に酒やるとか」
「お酒あげたんですか!?」
 莉子が驚いたように叫び、莉子の父が嘆息して、真夏も顔を押さえた。隠すような情報ではないが、あまりペラペラと現場のことを喋るのはよくない。自分も以前莉子に張り込み場所を口を滑らせたことを思うと人のことは言えないが、そのとき日野に叱責されたことを思い出して、やはり釈然としない気分になった。だが、この際だからと口を開く。
「そういえば、どうして警視は酒を出したんでしょうか?」
「それは多分、お酒の高い利尿作用を利用したんですよ」
 答えは意外なところから返ってきた。莉子が栓抜きでビールの栓を開けながら、こともなげに答えてくる。
「お酒飲んだらトイレが近くなるでしょ? 犯人がトイレに行けば必然的に人質から離れる」
「な、なるほど……でも、それなら酒じゃなく、睡眠薬入りの飲料の方が早かったんじゃ……」
 莉子の持ったビール瓶に視点をあてて真夏が唸ると、莉子はうーんと難しそうな表情をした。
「それはそうですが、犯人がちゃんと寝たかどうか外から確認するのは難しいです。多分、弟さんは局の側に誰か張り込ませていたんじゃないでしょうか? そうすればトイレなら音で確実に分かるし、突入のタイミングが掴みやすい――」
 ダンッ、という大きな音に、莉子の言葉は唐突に掻き消された。すっかり聞き入っていた真夏など、驚いてびくりと体を震わせてしまう。ぶつぶつと愚痴っていた日野も言葉を止めた。
 音の正体は、つまみを作っていた店主が力任せに包丁でまな板を叩きつけたのだったが、そのこと自体より、店主の表情が、誰にも言葉を発することを許さなかった。
「――小娘が生意気なことを言ってすまんな」
 静寂の中店主が謝罪を紡ぎ、そして何事もなかったようにまたつまみ作りを再開する。だが気まずい雰囲気は払拭されず、黙ったまま莉子は日野にビールを継ぎ、日野はその泡を啜った。
「もう帰れ、莉子」
 そんな空気の中ぼそっと一言告げられた父の言葉に、さすがの莉子も反論できなかたようで、うん、と返事して机の上の勉強道具を片付け始める。
「あ、じゃあ僕送っていきます。もう遅いですし」
「大丈夫ですよ、家、すぐそこですし。それに私、佐藤さんより強いですよ?」
「はは、まあ、そうかもしれないですが……」
 冗談めかした莉子の言葉は、真夏にとっては何の冗談にもなっていなくて、苦笑が零れる。それでも職業上、こんな時間に女の子一人で外を歩かせるのは気がひけた。
「悪いな、兄ちゃん」
「いえ、もとはと言えば僕たちが押し掛けたせいですし」
 珍しく恐縮している店主に、真夏は笑って答えた。正直、この気まずい空気から逃れたいというのがあったので、莉子を送るという口実で場を離れられるのはありがたいくらいだ。
 行きましょう、と声を掛け、真夏は莉子を伴って店を出た。