「はい、日野です」
ハンドルを握りながら、真夏は隣で電話に出る日野の声を聞くともなしに聞いていた。先日の連続痴漢で使用した防犯カメラの映像を還付した帰りだった。このところは比較的穏やかだ。かといって暇なわけもないが、少なくとも何日も帰れなかったり、帰ったと思ったら呼びだされたりといったことはなかった。
だから日野が顔をしかめるのを見て、真夏は嫌な予感がした。
「えっ……、はい。はい」
相槌を打つ声もいつになく真剣だ。ちらりとその横顔を見ると、日野が片手をくるりと返し、後ろを差した。それがトランクを差していると気付き、真夏は車を寄せて止めると、トランクから赤色灯を出した。それを車の上に乗せてコードを引いていると、日野が窓から顔を出し、早口に告げる。
「立てこもりだ。××郵便局」
「えっ!? は、はい!」
作業を終えて運転席に戻ると、丁度日野が無線をつけたところだった。遠くからもサイレンの音が聞こえる。無線とサイレンが入り混じる中、二人の乗る車両は現場へと急行した。
あちこちからサイレンの音が聞こえる中、真夏は現場である郵便局から大通を挟んで向かい側にある、大型ショッピングセンターの駐車場に車を乗り入れた。既にパトカーが数台止まっており、矢代の姿も見える。
「おお、来たか」
「何だって郵便局なんかにこもってるんですか?」
開口一番、日野が気になっていたことを口にすると、矢代は黙って郵便局の方に顎をしゃくる。通りの向こうに目を凝らすと、入口に酷く痩せた男の姿があり、ここまで聞こえてくるような声で怒鳴り散らしていた。
「おい! 聞いてんのか! 喉が渇いたって言ってるだろう、水だ、水持って来い!」
表情まではよく見えないが、がなり立てるような声、その呂律も回っていない状態は、とても正常とは思えない。辛うじて聞き取れたのはそれだけで、後の言葉はまるで意味不明だった。
「こりゃー、シャブやってんなぁ……」
面倒そうに日野は前髪を掻き揚げた。恐らく、何か要求があってやっているわけではないのだろう。単にハイになっているだけのようだ。それだけに、いつ何をするか分からず、交渉も通用しない。事の厄介さに思わず真夏も眉根を寄せた。
「まだはっきりしたことはわからんが、局員が人質になっているようだ。今逃げてきた他の局員や客から話を聞いているが、銃を持っているとの証言もある。間もなくSITも到着する。お前たちはこの辺一帯の封鎖を急げ」
矢代の指示に、真夏は緊張した面持ちで返事をした。
通りの向こうからは、ひっきりなしに怒鳴り声が続いている。
道路の封鎖が終わって真夏達が駐車場に戻る頃には、SITが到着していた。だがまだ隊員たちは車両の中で事態が動いた気配はない。
制服警官や刑事達でごった返す中、真夏は矢代の姿を探して状況を問いかけた。
「係長、状況はどうでしょうか」
「うん。シャブによれとるね。タマは銃を所持していて人質は女性局員が一人。迂闊には動けんな」
「……そうですね」
SITの車両の方を仰ぐが、隊員たちが出てくる様子はない。出先から直接来た真夏と日野は何の装備もないから、相手が銃を持っているのでは当面出番はなさそうだ。
「しかし、人質が心配ですね」
正気を失い、銃を手にした相手の傍にいる人質を思うと、真夏はいたたまれない気分になった。日野もそれは同じなのだろう。苛々したように舌打ちする。
「マスコミがタマを刺激しないといいんだが……」
既に上空にはヘリコプターの姿があり、真夏も舌打ちしたい気分になった。仕方のないことかもしれないが、立場上、やはりこういうことはありがたいものではない。
「この状況じゃ当分突入はできねーだろうな」
腕組みして、日野がそう呟いた、まさにその時だった。
当分動かないと思われていたSITの車両から、若い男が現れ、それを追う様にして副署長がまろび出てくる。
「ま、待ちなさい隊長!」
どうやら副署長は男を止めようとしているようだったが、男は歯牙にもかけない。その男に真夏は見覚えがあった。
「か、監察官。どうしてここに――」
思わず疑問を口にしてしまってから、はっとして真夏は日野を振り返った。だが既に日野はそこにはおらず、男の歩みを遮るように立ちはだかっていた。
「なんで監察官のお前がここに居るんだよ?」
「いつの話ですか。異動で今は
日野は唖然として立ちつくしていたが、男は――日野の弟、日野春紀警視は、わざとらしい溜め息を一つ吐くと彼の横をすり抜けて、通りの方へ歩いていった。
「おい、待てよ! んなもん持ってどうする気だ!」
その背に日野が呼びかけても、副署長が止めても、警視はその歩みを止めなかった。