圧倒的に不利なカーチェイスは長くは続かなかった。
「あっという間に撒かれたな」
「す、すみません……」
日野の揶揄に真夏はがっくりと肩を落としたが、別段真夏の運転に問題があったわけではない。いくら深夜で車通りが少ないとはいえ、反対車線を走るわけにも行かない。急に方向転換されて歩道を走られ、そのまま細い路地裏に消えられてしまえば、車でそれを追うのは酷く難しい。地の利も向こうにある以上、追跡できなかったのは真夏の責任とも言えないだろう。
「仕方ない。エンジン音を頼りに、他と連携して追うぞ」
「待って」
割って入った声に、日野は浅く溜め息をついた。その彼が言葉を紡ぐ前に、真夏はなるべく穏やかな声をあげる。
「莉子さん、あの……」
「先回りした方が確実です。行き先は多分あっちだと思う」
つい莉子が指差した方をみれば、内海が向かったのとは逆の方角だった。
「掲示板の指示、見ましたよね? 先生の殺害計画も、その方法も!」
莉子がプリントアウトした紙を握り締めて叫ぶ。真夏は見ていないので日野の方を見ると、彼は渋い顔をしながらも頷いた。
「道路にピアノ線を張る。後は単車でおびき寄せて」
首を跳ねる。その指示で掲示板のやりとりは終わっていた。ごくシンプルだが、それだけに実行してしまう確率は高い。
「この方法を実行するなら、人通りの少ない暗いところで、首の高さでピアノ線が張れて、かつ先生が単車でスピードを出して走行するところです。他の車が通ったらアウトだし、先生は見通しが悪い道や交差点は徐行する。でもこの通りを東に行けば山道になる。打ってつけです」
一瞬、静寂が場を支配した。真夏のハンドルを操作する手が迷う。日野さえも判断しかねて、その視線は矢代を向いた。ミラー越しの視線を含めて三人に注視されて、矢代が深く息を吐く。
「……行こう」
矢代の首が東を向いて、真夏は東へとハンドルを切った。
やがて山道に入るとすれ違う車もなくなり、舗装された道路も終わる。ガタガタの道をしばらく進んで車を止めると、遠くで、ひっきりなしにサイレンの音がしている。
「この辺でしょうか」
真夏は車を降りると闇の中に目を凝らした。脇には木が密集していて、どこにピアノ線が張ってあってもおかしくない。日野も車を降り、莉子も扉に手をかけたが矢代がその手を掴んで首を横に振った。だが、バイクのエンジン音が聞こえて、莉子がその手を振り切る。
「先生!」
莉子の読みが当たった。
エンジン音はどんどん近付いてくる。莉子を追って、矢代も車を降りる。闇の先で、一つ目のヘッドライトが光るのが四人の目に映る。
そしてその光を真一文字に引き裂く細い線も。
「……っ! あれ!」
莉子が叫んで駆け出そうとし、足を止める。そしてその場に崩れ落ちた。そして、その理由はこの場にいる全員が分かっている。
間に合わない。
何をどう考えても覆らない結論に、足から力が抜ける。ピアノ線だ。そしてそのピアノ線めがけて内海が単車で向かってくる。間に合わない。
「いやああああ!!!」
莉子の叫び声が響いてくるエンジン音に吸い込まれる。それでも一縷の望みを託して莉子が真夏を見上げたとき、真夏はホルスターの拳銃に手をかけて、矢代を振り返っていた。
矢代が頷くと、真夏は拳銃を構えた。日野が運転席に飛び乗って、ライトを上向きにする。
「……無茶よ」
意図を悟って莉子が呟く。真夏は拳銃でピアノ線を打ち抜くつもりなのだ。
「できるわけない!」
けれどその叫び声もバイクの音も、もう真夏には聞こえていなかった。
「足は肩幅――」
ぶつぶつと何事か呟きながら、足を肩幅に開き、真っ直ぐに拳銃を構え、肩の力を抜く。
一瞬焦ってダブルアクションで発砲しそうになるが、一度深呼吸して冷静に激鉄を起こした。チャンスは一度だ。焦って外しては元も子もない。
焦燥を捨てる。深呼吸の後は呼吸も止める。息をしたら照準がずれる。神経を限りなく研ぎ澄ませ、音が消える。視界から、ピアノ線以外の全てを消す。
――無音。
静かに、少しずつ、引き金を絞る。
無音の世界を、発砲音が裂いた。反動が腕を駆け抜け、弾丸が空気を引き裂く。
「こないださ。真夏、拳銃の練習に行ってるって言ったろ」
運転席にもたれながら、日野が突然そんな声を上げる。
「一年に一回、拳銃競技大会っていうのがあってさ。ウチの署の代表が真夏なワケ。こいつ、勤続二年目で既に全国大会の出場経験もあるんだぜ」
呆然とする莉子の目の前でバイクが止まり、そんな日野の声が耳を抜けて行った。
■ □ ■ □ ■
「日野、コーヒーが不味い」
「勘弁して下さいよ。お茶汲みが不在なんです」
カップを持ちあげた矢代に向かって、日野は書類に隠れるようにして唸った。
今日は拳銃大会の当日だった。
「ま、誰しも何かしら取り柄があるもんですねぇ」
空いているデスクを見ながら呟く。真夏が見事拳銃でピアノ線を切ったおかげで事なきを得、田辺麻友は拘留された。だがまるで憑き物が落ちたように素直に取り調べには応じている。本当は、止めて欲しかったのかもしれない。監視カメラに映っていた、目立たないようにして目立っていたあの格好を思い出し、日野はそんなことを思った。
「ならいい加減お前の取り柄を見せて欲しいもんだな」
そんなところに矢代の皮肉が返ってきて、慌てて書類に打ち込む――フリをする。だがふと思い出したことがあって、日野は再び矢代を見上げた。
「そういえば係長。リコチャン――こないだの女子高生のことご存知のような素振りでしたが」
「ん? ああ」
査長にコーヒーのおかわりを要求して目で断られながら、矢代は曖昧な声を上げた。
「……いや。龍造寺と言う名の知り合いがいるだけだ。ありふれた名字ではないが、ないこともないだろうからな」
「そのお知り合いはどういう関係で?」
「先輩だ。――だった。かつてSITの隊長をしていた男だ」
SIT――Special Investigation Team。全国の都道府県警察本部、刑事部捜査第一課に設置されている特殊犯捜査係。
まさか、な。
ラーメン屋の店主の顔を思い浮かべながら、日野は口の中でそう呟いた。