02:警視の作戦


 呆然としているのは何も日野だけではなかった。真夏は勿論のこと、彼を止めるべく追っていた副署長も、矢代も他の警官達も、唖然と日野警視の後ろ姿を見守るしかなかった。
「SITの隊長だって? いつの間に……」
「なんで先輩が知らないんですか。弟さんでしょう? 一緒に暮らしてないんですか?」
「弟が何してるかなんていちいち知るかよ。家が同じでも互いに勤務が不規則だから会わねえし、大体仲悪いって言ってんだろ」
 不愉快そうに日野はそう吐き捨てるが、真夏には今一つ理解し難かった。真夏とて家族の仕事にそう詳しいわけではないが、同じ仕事をしているのに異動したことすら知らないとなると、どれだけ仲が悪いんだろうと日野の兄弟仲が他人ながら心配になった。
「そういや、SITの隊長で思い出したが――」
 だがふと日野がそんな声を上げて、真夏は彼の方を向いた。だが日野とは視線が合わず、そして彼がその先を口にすることはなかった。
「今する話じゃないな。にしてもあいつ、どういうつもりなんだろうな」
 春紀は既に通りを越えて局の近くに達している。日野は通りギリギリまで寄って、食い入るように弟を見ていた。仲が悪いとはいえ肉親として気になるのだろう。何の関係もない真夏でさえ春紀の行動から目を離せない。というのも、こういう場合、普通はおいそれとは動かない。いや、動けないのだ。
 海外なら強行手段も取れようが、日本の場合そうではない。人質の安全はもちろんのこと、被疑者の命も守らねばならないのだ。当然自分が死んでもいけない。全員生きて事態を解決して当たり前という、恐ろしく難しい要求を当然のように突きつけられ、失敗は決して許されない。そんな容赦のない仕事だ。
 だがそんな錘に縛られながらも春紀は臆することなく歩き、局の目の前に立ち、全員が固唾をのんで見守る中よく通る声を上げた。
「要求は水でしたよね? そんなしけたことを言わず、盛大に一杯やったらどうですか」
 そんな言葉と共に、春紀はいつどこで用意したのか、片手に持っていた缶ビールのパックを地面においた。立て籠っていた男が顔を覗かせ、支離滅裂なことを叫びながら銃口を春紀に向けた。警官たちがどよめいたが、春紀に動揺した様子はなく、涼しい声を上げ続ける。
「ごらんなさい、ヘリまで来て貴方に注目していますよ。すっかり有名人です。気兼ねなく祝杯を上げるといい」
 それだけ言い残すと、用は済んだとばかりにさっさと春紀は犯人に背を向けて戻っていく。犯人は春紀の言葉に釣られて周囲をきょろきょろと見、興奮したように吠えた。その後春紀が完全に立ち去ったのを確認して、人質をひきずるようにして出てくるとビールを手に取り、再び局に篭った。一方、戻ってきた春紀は尚も喚いている副署長達を綺麗に無視してSITの車両に入っていく。入れ違うようにして隊員達が降りてきた。
「突入でしょうか」
 真夏が呟くが、日野は答えなかった。黙って携帯を取り出しアンテナを伸ばしている。日野がつけたワンセグから、レポーターの声が小さく聞こえてくる。
『あっ……と、今SITが出てきたようです、報道規制が入りまして、詳しい動きはわかりませんが、今車両から隊員が出てきました』
「けっ、全然規制されてねーじゃねーか。おい真夏、これ見てた方が詳しいことわかりそうだぜ」
 携帯を持った手を振りながら日野が皮肉っぽく吐き捨てる。その口調はいつも以上に荒々しく、酷く不機嫌なのがわかった。
「あ、そうか。成程」
 矢代もまた渋い顔でワンセグを覗きこんでいたが、ふいにそんな声を上げた。真夏も日野も彼に注目するが、矢代はこちらを向かず、局の方を向いた。正面からはわからないが、マスコミが撮っている上空からの映像を見ると、SITがあちこちの方向から局を包囲しているのがよくわかる。真夏はその映像を見るともなしに見ながら矢代の言葉の続きを待ったが、結局それは紡がれないまま目の前から画面が消えた。車両から春紀が姿を現し、それに気付いた日野が彼に詰めより、胸倉を掴んだのだ。
「お前少しワンマンすぎんぞ。組織のことも考えろ」
「あなたに言われたくありませんね」
 おお、と思わず真夏は感嘆の息をもらした。皆が日野に思っていながら飲み込んでいたことをこともなげに告げるあたり、さすが弟である。 「生憎僕は組織の為に働いているわけではありません。ですが組織にとって必要だからこそ僕は今この地位にいる。余計なしがらみなどを気にするからあなたは未だ査長止まりなんですよ」
 今度は真夏は息が止まりそうになった。春紀の言葉が、相手が身内とはいえあまりに辛辣だったからである。一触即発なのが傍目にも分かるほど、二人の間を険悪な空気が流れる。
「感情に流されることが共感を生むのはドラマの中だけです。実際に民衆が僕たちに望むのは成功の二文字のみ。僕たちは成功のために任務を遂行するのみです。……あなたは甘いんですよ、兄さん」
 そう言って日野の手を春紀が振り払った数分後、局は制圧され、人質は無傷で犯人が確保された。