午前七時、真夏はいつも通りの時間に出勤すると、背広を脱いでいそいそと掃除を始めた。とくに変わったことは何もない、いつも通りの朝だ。忙しくならないようにとささやかに町の平和を願いつつ箒を動かしていると、ぼさぼさの頭をかきむしりながら日野が姿を現した。いつも通りの朝はここで終わりを告げる。
「ひ、日野先輩。どうしたんですか? まだ七時ですよ?」
日野は遅刻こそしないが、いつもギリギリの時間に現れる。辛うじて係長達よりは早いがあくまで『辛うじて』で、掃き掃除も終わらぬうちにということはまずもってない。
これは町の平和も危ういかもしれない。下手をしたら大災害の前触れかもしれない、と真剣に考えながら声をかけると、日野はよれよれのネクタイを直しながら面倒そうに顔を上げた。
「……あー。うっかり二度寝しちまって。慌てて飯も食わず飛び出して全力でチャリ漕いだら、なんかいつもより早く着いちまった」
しかし理由を聞いてみれば、実に日野らしいと思えた。災害は免れそうだ。
「アホらし。ちょっとタバコ吸ってくるわ」
デスクに上着を投げ捨て、日野はそのままUターンして出ていった。そのとき、真夏はふと今朝受付の職員に聞いたことを思い出して、日野の背中に声をかける。
「先輩、そういえばこないだ莉子さんが来たそうじゃないですか? 何の用だったんですか?」
実際に受付が言っていたのは、女子高生が真夏を訪ねてきたということだけだった。真夏がいないというと、日野を指名したので日野が対応したとのことだったが、自分と日野を訪ねてくる女子高生というと莉子しか真夏には思い当る人がいない。
何か困ったことがあったのではと心配になったのだが、問いかけに振り返った日野は、にたりと何か含んだ笑みを見せた。
「気になんの?」
「え? いやそりゃ、知人として……」
「知人ねえ。知らねーぞ、大将に殺されても」
「な、何の話ですか!?」
にまにましながら刑事課を出て行く日野を、からかわれていると分かってはいたものの、かっとして真夏は追いかけてしまった。まだ上司が来るまでには充分時間はある。それに、莉子が何の用件で来たのか気になるのも事実だった。決して下心ではなく。
タバコを吸いに外に出た日野を追いかけ、もう一度声をかけようとすると、それよりも先に日野が声を上げる。ただし、相手は真夏ではなくタバコを吸っていた先客にだった。
「おう、山田じゃねーか。その後どうよ」
「あ、日野センパイ。おはようございます」
咥えていたタバコを離して、山田と呼ばれた男が日野に頭を下げる。真夏の記憶によれば、確か生活安全課にいる日野の元後輩だ。
「こないだの、女子高生が持ってきたヤツですよね。あれ、ヤバそうですよ」
日野と山田が話し始めたので、真夏は仕方なく掃除に戻ろうとしたが、山田の言葉に足と止めた。どうやら自分が聞きたかった話をしているらしい。
「ヤバいって?」
「嫌がらせにしては悪質というか。ついに脅迫状まで届くようになりましたし」
「脅迫状?」
「ええ、『お前を殺す』って。多分、近々刑事課にも手伝ってもらうことになりそうです」
そんな山田の言葉に、タバコに火をつけた日野は、渋面で煙を吐き出した。
それから刑事課に戻って掃除を終え、まもなく出勤した矢代にコーヒーを淹れると、それを一口飲んでから矢代はおもむろに口を開いた。
「生安と合同で捜査することになったから、講堂集合」
ぼそりと告げられた言葉に、真夏と日野の「え」という声がハモった。
「係長、それって、高校教師が嫌がらせ受けてるとかの奴ですか?」
「そうそう。お前が生安に押し付けたやつ」
「ひ、人聞き悪いこと言わないで下さいよ。誰に聞いたんですか」
「聞かなくてもお前の悪名はいつも響き渡っとるよ」
しれっと言われ絶句する日野を尻目に、矢代はコーヒーを干すと右手で机の上のビニールに入れられた封書を指した。封書といっても大きめな正方形の定型外で、色が真っ黒のため異様な雰囲気を放っている。
「これ、脅迫状」
「指紋は出たんですか?」
立ち直ったらしい日野が、仕事をする顔つきに戻って矢代に問いかける。立ち直りが早いのは日野の長所だが、ある意味短所でもある。あまり反省していないのが見え見えだからだ。真夏は呆れたが、矢代は慣れっこなのか気にしてないのか、さして表情を動かさず淡々と答えた。
「いいや。もちろん切手から唾液も出なかった」
「切手はノリで?」
「うんにゃ、水だな」
日野が真顔になったのは短い間のことで、すぐにまた面倒そうに顔を歪める。だが、珍しく矢代もまた似たような表情だった。
「……ノリだと何か違うんですか?」
場違いな質問かもしれないが、気になったので真夏が声を上げると、面倒そうな顔ながらも日野はこちらを向いて声を上げた。
「ノリによって成分が違うからな、調べて市販のものなのかどうかとか、市販ならそれを売ってる文房具屋を当たるとかできるだろ。……まぁんなことで何かわかるってわけでもないだろうけど、少なくとも水よりは手掛かりになるかもしんないだろ」
なるほど、と日野の説明に納得する。社会人としては微妙だが、刑事の先輩としては、やはり日野は頼りになると真夏は感心した。
「でも水なんですよね。そうするとこの封書は手掛かりにならないってことですか」
「うーん……」
日野は改めて封書に視線を落とすと、しげしげとそれを見た後、また顔を上げた。
「消印があるから、その郵便局を当たるだろ。それで……」
だが、その声はどんどん力をなくしていく。いったん言葉を切って深い溜め息をついた後、日野は矢代の方へと向き直った。
「郵便局にポストの場所を聞いて、全てのポストを洗う……そのための合同捜査ですか?」
「はい、正解」
問いかけつつ、答えは聞きたくない。そう日野の目は雄弁に語っていたが、矢代は即答するとおかわりを要求するようにカップを掲げた。