01:影は忍び寄る


「センセー、なんで革靴なんですか?」
 フェンス越しに、莉子はついに授業が始まってからずっと気になっていたことを口にした。
 今は体育の時間だ。女子はテニスコートに集まってテニスをしている。だが莉子の視線は、専ら隣のグラウンドでサッカーをしている男子に釘付けだった。正しくは、男子にではなく、指導している教師に、だが。
 それは別段、恋愛的な意味ではない。恋愛に全く興味がないとまでは言わないが、教師との恋愛というどこか背徳的なものへの憧れなどは全くない。あったとして、隣で授業をしている体育教師は、全く莉子のタイプではないからやはり関係ない。
 それでも彼が気になって仕方ないのは、その体育教師が、何故かジャージに革靴で授業をしているからである。
「ん? ああ。なんか、スニーカーの紐が切れてなあ」
「紐が切れるほどボロボロなの使ってたんですか?」
 呆れた声で聞き返すと、心外とでも言いたげな声が返ってくる。
「いや、新品だよ。使ってたやつがなくなってしまって買ったばかりだ」
「なのに切れたんですか?」
「ああ、不吉だろ」
「新しかったんでしょ? 私は不吉というより人為的なものを感じるんですけど」
 まさか、と教師が気楽な声を上げる。その単語を聞くとすっかりある人物を思い出すようになってしまった莉子は、ほんの少し苦笑してから先を続けた。
「さっき、スニーカーなくなったって言いましたよね?」
「そうなんだよなあ。最近よく物をなくすんだ。歳かなあ」
「そうじゃなくて……」
「ほら、いつまでもサボってるんじゃない。ちゃんと授業に集中しろよ」
 追い払うように手をひらひらと動かし、教師もグラウンドの方へ戻って行く。その拍子に、ズボンのポケットから紙きれがひらりと落ちた。ポケットには遠目でもはっきりわかるほど見事に穴があいており、スニーカーが新しかったという情報はあまり信用できないなと、嘆息する。
 莉子は身軽にフェンスを乗り越えると、グラウンドに侵入して紙きれを拾った。
「な、何これ!?」
 そしてその中身を見て、絶句した。

 ■ □ ■

 ざわついていた署内が、急激に静まり返る。一瞬の静寂の後、ざわめきは先ほどとは微妙に質を変えて返ってきた。
「……何だって?」
「だから、受付で女子高生が日野巡査長を呼んでいます」
 女子高生が自分を呼んでいる。
 一瞬耳を疑ったが、聞き返せばもう一度甘美な響きが耳に返ってくる。
 日野はしばしの時間それを堪能した。しかし、ゆっくりと味わっている暇はない。我に返ると、すばやくスーツの内ポケットに手を入れる。取りだしたワックスの蓋を開けると、流れるような仕草でそれを掬い、ぼさぼさの頭に塗りつける。いつもそんなものを持ち歩いているのかと突っ込みそうな者は、今日はいない。髪を整え終え、やはり懐から取り出した電動髭剃りで剃り残しの髭を綺麗に処理する日野に向けられるのは、冷たい視線ばかりだ。
「組織に迷惑はかけるなよ」
「イエッサー!」
 ぼそりと呟いたのは、不味そうにコーヒーをすすっていた矢代警部補だ。もちろん皮肉だが、微塵も通じていない晴れやかな笑顔で敬礼し、日野は刑事課を飛び出した。階段を駆けおりたいのをぐっと堪えて、エレベーターの下ボタンを押す。
 チン、という音が聞こえ、日野は深呼吸をしてエレベーターに乗り込んだ。一階に着く前に上着を羽織り直し、身なりを整える。
 高鳴る鼓動の向こうでエレベーターの扉が開く。その向こうでは女子高生が自分を待っている。どこの学校か聞き忘れたが、セーラー服だろうかブレザーだろうか。最近の私立の制服はなかなか凝っていて可愛らしいが、スタンダードなセーラー服もまた良い。
「こんにちは、日野さーん」
 妄想に耽っていると、聞き覚えのある声が自分を呼んだ。そちらに目を向けると、赤いラインが入ったセーラー服の少女が、肩の上でポニーテールを揺らしながら駆け寄ってくる。
「……なんだ、リコちゃんか……」
「なんだって、ご挨拶ですねー。もうメンマおまけしませんよ?」
「うっ、それは困る」
 唸りながら、日野はきっちり固めた髪をがしがしと掻きまわした。
 女子高生は女子高生だが、日野が夢見たシチュエーションとは少し違う。腰に手をあて、不服そうにこちらを見上げてくるのは、行きつけのラーメン屋の娘で、莉子という。
 あかぬけてはいないが、飾らなくとも充分可愛らしい彼女は、決して「なんだ」などと落胆するような相手ではない。しかしラーメン屋の店主から「手を出すな」と釘を刺されているのだ。あの殺気を思い出すとどうも毒気が抜けてしまう。
「で、何の用なの」
 そして、莉子は何かと厄介事に首を突っ込む性質がある。頭がやたらと切れ、合気道の腕は達人並みだ。一番厄介なのは、それに助けられることがあるから邪険にできないということである。
「ええとね。私の高校の先生が、凄く陰湿な嫌がらせを受けてるみたいなんです。物を隠されたり、スニーカーの紐切られたり、怪文書送られたり」
「怪文書?」
「うん、これ」
 莉子が差しだした紙切れを受け取り、日野は小さく折りたたまれたそれを開いた。
「……うわ」
 そして思わず気持ち悪そうな声を上げる。
 紙切れには、新聞や雑誌の切り抜きとおぼしき「死」という文字だけがずらりと様々な書体で並んでいた。どう考えても貰って気持ちのいいものではない。
「先生はね、ただのイタズラだからって気にしてないみたいなんだけど、ちょっと悪質じゃないですか? それで私が警察に相談した方がいいよって言ったんです」
「で、そのセンセーは」
「そこで座ってるのがそうよ」
 受付の前の椅子に、中年くらいのがっしりした体格の男が腰掛けている。美人教師を想像しかけたが、その夢は見る前に壊された。溜め息をつきながら、日野が莉子と怪文書を見比べる。
「あー……、まあこりゃ生安の仕事だな。今呼ぶからここで待ってな」
「えー、日野さんサボりたいだけじゃないんですか?」
「人聞きの悪いこと言わないの。刑事は忙しいんだから、マジで」
 生活安全課にいる後輩を呼ぶために、日野は受付に入り受話器を取った。
「ねえ、佐藤さんは?」
「真夏なら拳銃の練習で呼びだされてるよ」
「ふーん。佐藤さん、下手そうだもんね」
 莉子の呟きを聞いて、日野はぶっと吹き出した。だが電話が繋がったので腹を押さえて笑いを堪える。
「お、山田か? 日野だ。ちょっと下まで降りてくれねーかな。女子高生がお前を呼んでるぜ」
 電話の向こうで後輩のテンションが上がったのを感じて、日野は再び痙攣する腹を押さえた。