07:超有名な優等生


 いろいろ際どい局面はあったものの、結局その後池本健太は兄と梢になだめられて、大人しく任意同行に従った。
 やはり秀一に毒を仕込んだのは健太であり、動機は積年の兄への恨みつらみだと取り調べで語った。曰く、昔から兄は優秀で自分は出来そこないだと、強い劣等感を抱いていたようである。そこへ、好意を寄せていた梢を兄に取られたことで、感情が爆発したようだった。
 しかし梢の件は、秀一や梢から詳しい話を聞けば完全に健太の誤解であり、梢は元々秀一に想いを寄せていたようだ。健太と仲良くしていたのも、最初から秀一が目当てだったらしい。
 秀一にいたっては健太の恋心など全く知らず、事件の後それに気付いて、弟に彼女を譲ろうとしてわざと梢に辛辣な言葉をぶつけたという顛末だった。
「ま、それを聞いたところであの弟的には余計ムカツクだけだろうけどねー」
 秀一の事情聴取に行っていた日野は、つらつらとその内容を語ったあとにそんな風に締めくくった。相変わらず白いままの書類を机において、くるくるとペンを回す。
「経験談ですか」
 真夏が皮肉を言うと、日野は大げさに手を広げて心外だ、と示す。
「馬鹿言え。俺は弟から女を取ったことはあるが逆はないぞ」
「自慢げに言うことですか」
「は? いやここは自慢するところでしょ。ねぇ?」
 たまたま後ろを通った事務の女性に日野が笑いかけるが、あっさりとスルーされる。こういった日野のアプローチにはもう女性職員はみな慣れ切っていた。日野の方も慣れているのは同じことで、小さく肩をすくめると、しぶしぶと再び机に向かう。
「……池本健太はどんな罪になるんでしょう」
「そりゃ、フツーに考えたら殺人未遂でしょ」
 簡単に答えてくる日野ほど、真夏の気持ちは簡単ではなかった。
「身内でのいざこざなんですし、もう少し穏便に片付かないものでしょうか」
「また、お前は……」
 ようやく書類を書き始めた日野の手が再び止まり、そのまま彼は疲れたように机の上に突っ伏した。
「いや、僕がそんなこと言ってもどうしようもないのはわかりますよ。でも秀一さんは健太さんを憎んでいませんでしたし、弟が犯罪者になるのを望まない筈です。それに、健太さんだって本当はお兄さんのこと好きなんじゃないでしょうか? そうじゃなかったら、一緒に住んだりしないと思いますし」
「だからって人に毒盛っていいわけじゃないだろ」
「そうですが……、誰にだって弱さや甘さはあるじゃないですか」
「甘いですね」
 ぴしゃりと告げられた声は日野のものではなく、真夏は口にしかけた反論を辛うじて引っ込めた。
 声の方を振り向くと、いつの間にか見慣れない人物が、見下したような鋭い視線を眼鏡の奥から投げかけている。
「人には誰でも甘えがあります。ですがそれが犯罪という名の甘えなら、私はそれを許しません。警察官ですからね」
「監察官!!」
 がた、と署内にいた者達が立ち上がり、居ずまいを正す。それを見て、髪を一部の乱れもなくぴしりと整え、今しがた冷たい声を上げた人物がくい、と片手で眼鏡を直した。
 真夏もまた、署員達にならってぴしりと背筋を伸ばす。
 だが一人だけ、足並みをそろえない者がいた。
「うるせーよ」
 ぴくりと監察官の眼鏡を直す手が動く。それと同時に、真夏は悲鳴を飲み込んだ。
「日野先輩!?」
「っていうかそれ、昨日再放送でやってたはぐれ刑事のパクリじゃねーか」
 小声で真夏が叫ぶが日野は一向に構わず、だるそうな姿勢で机に肘をつきながら、逆の手で監察官を指差して揶揄する。あまりにあまりな態度に真夏は心臓が凍りつくかと思ったが、監察官は日野を一瞥し「チッ」と悔しそうに舌打ちすると、また眼鏡を直して踵を返していった。
「……日野先輩! 監察官になんていう態度を!?」
「は? お前しらねーの?」
「いや、知ってますよ、ていうか組織の人間なら誰でも知ってますよ! T大を主席で卒業、キャリア組で二十五歳にして既に警視の冷徹非道な監察官、日野春紀――」
 そこまで口にして、真夏はハタと言葉を止めた。
「も、もしかして……」
「別にいーじゃねーか。弟なんだから、何言っても」
 胸ポケットから煙草を取り出しながら席を立った日野を、真夏はぽかんとしながら見送ったのだった。