06:芸術的な一教裏


 病室の扉が開く音に、秀一はベッドから体を起こした。
「……話って、何」
 入ってきて目が合うなり、弟がそんなことを聞いてくる。
 秀一はしばらく迷うように視線をさまよわせたが、やがて意を決したように布団の上で組んだ手をぐっと固く握りしめた。
「ん、いや。俺、梢と別れようと思うんだ」
 その手に焦点をあてながら、簡潔に用件を述べる。は、と弟が咎めるような声を上げるが、秀一は構わず話しを続けた。
「だからその、さ。お前に後を頼むよ。友達だったろ?」
「……んだよ、それ」
 健太が冷え切った声を零す。
 それが、怒鳴っているときよりもよほど怒っているということを秀一は知っている。それでも前言を撤回することはできなかった。まして、謝ることなどもっての他だ。
 いっそ明るく笑い飛ばすくらいの口調で、また秀一は声を上げた。
「電話とかしつこくされたら困るからさ。仕事に穴をあけてしまったから、暫くは集中して取り戻さないといけないんだ。だから――」
 健太が拳を振り上げた。
 殴る気だとわかっていて、秀一は止めようとしなかった。もちろん避けるつもりもなかった。冷静にその拳を見つめて、だけどそれが届くことはなかった。
 些細な物音が、それを止めた。
「梢……」
 健太のうめき声の示すとおり、遠慮がちに開けられた扉の向こうに、呆然とした表情で梢が立っていた。
「……なんで?」
 ぽつりと梢が呟き、秀一が目を逸らす。
 かつ、かつ、と梢のヒールが床を打ち、その間隔は次第に短く、音は次第に荒くなる。
 駆け寄ってきた梢が、ベッドの上に両手をついて、堪え切れなくなったように叫んだ。
「どうして? なんでそんなこと言うの!?」
「……言っただろ。仕事に集中したいんだ」
 顔を背けたまま、秀一が冷たく告げる。納得できない、というように、梢は何度もかぶりを振った。
「あたし、お仕事の邪魔しない! 今までだって、忙しいときは電話もメールも我慢した!」
「釣り合わないんだよ!」
 梢の叫びを、秀一の叫び声が上塗りする。
「自分でわかってるだろ。優秀な俺とじゃ釣り合わないって自分で言ってたじゃないか。今まで付き合ってやっただけでもありがたいと――」
「――テメェ!」
 健太が秀一の襟首を掴みあげ、睨みつける。秀一もまたそんな健太を睨みつけ、一触即発の空気に梢が小さく悲鳴を上げる。
「はい、お取り込み中失礼します〜」
 そんな危うい均衡は、酷く間延びした声に良い形で崩された。
 悪気のない笑顔でずかずかと入ってくる日野と、気まずそうにおずおずと入ってくる真夏を見て、するりと健太の手が滑り落ちる。
「すみませんねー。ちょっとお尋ねしたいことがありまして」
「……申し訳ないですが、後にして頂けませんか」
「すぐ済みますよ。……こんなジンクスをご存知ないか聞きたいだけです」
 日野が胸ポケットから取り出したのはいつものセブンスターではなく、ボックスのラッキーストライクだった。そのフタを空けると、20本のタバコのうち、一本だけが逆を向いている。
 秀一と健太が凍ったように動きを止め、日野は梢にもそのタバコを見せた。涙のせいでアイメイクがぐしゃぐしゃになった梢が、それでもこくんと小さく頷く。
「……知ってます。一本だけ逆にして、それを最後に吸うと願いが叶うっていうやつでしょ?」
 それを聞いて、日野が勝ち誇ったようににやりと笑った。
「池本秀一さんも、このジンクスを知ってますよね」
「はい。あたしが教えてあげて、それからはいつも――」
「梢!」
 秀一が鋭く叫んで制止するが遅かった。
「つまり、秀一さんが最後にどのタバコを吸うかは、周囲の人間なら予めわかるってことですよね」
「……ッ」
 日野が横目で健太を見た、その時だった。
「――来るなぁ!」
 健太がジーンズのポケットから小型ナイフを取り出し、それを両手で突き出して真夏と日野に向ける。日野が小さく舌打ちした。
 健太の一番近くにいるのは梢だ。秀一が顔色を変えてベッドを降りようとしたが、
「動くな! 兄貴もだ!!」
 弟に怒鳴られ、ぴたりと動きを止めた。健太は興奮していて、下手に刺激すれば衝動的に何をするかわからないと判断したのだろう。真夏と日野も同じだった。
「落ちつけ、健太。別に俺ら、お前を捕まえに来たんじゃないし。ちょっと署まで来て話してもらえばいいだけなんだからさぁ」
「俺がやったんだよ! そしたら結局は捕まえるだろ!」
 突き出した手がぶるぶると震えている。真夏はただ成り行きを見守るしかなく、日野も嘆息するほかなかった。交渉術など二人とも心得ていない。
 凍りついたような時間が、じわじわと溶けるように過ぎる。だがそれは、突如として、割れた。
 ガラガラと、無遠慮に大きく扉が開く。
「あっれー? 部屋間違えちゃった。ごめんなさーい」
 突然の闖入者に、健太の目が反射的にそちらを向く。日野はその隙を逃さなかった。渾身の力で健太の手からナイフを叩き落とす。そして梢の腕を掴んで引き離し、床を滑ったナイフを真夏が拾い上げる。
 その間をすりぬけて、健太が出口へ走った。
「ま、待ちなさい!」
 慌てて真夏が追いかけようとするが、どのみち健太が病室を出ることは叶わなかった。
 入口に立っていた闖入者が、健太の腕を掴んで引き寄せると、あっけなく彼の体は地に伏せている。手をつかんだまま肩口を逆の手で押さえ、ついでに膝をのせて体重もかけ、起き上がれないようにしてから、彼女は茶色の尻尾を揺らして顔をあげた。
「もー。佐藤さんってほんと詰めが甘いんだからー」
「……鮮やかな一教裏」
 呟いて駆け寄る日野の後を追いながら、真夏はその言葉を反芻した。
「イッキョウ?」
「合気道だよ。何者なの、莉子チャン」
 莉子から健太の身柄を受け取りながら、呆れたように問う日野に、莉子はエヘヘと頬を掻いた。
「昔、お父さんに習ったんです」