01:不可解な独り言


 数度目の赤信号に捕まって、男は舌打ちすると二本目の煙草に火をつけた。
「悪いね兄貴。休みの日に」
「まったくだ。忙しい社会人を足に使って自分は旅行。大学生はいい身分だな」
 窓を数センチだけ開けて、ふうっと煙を吐き出しながら、隣の弟を睨む。だが兄はすぐにふっとその相好を崩した。
「ま、遊べるのも今のうちだけだからな。それより電車の時間大丈夫なのか」
「ああ、いくら混んでるってもせいぜいあと十分くらいだろ。どうせ一人旅だし遅れたところで差し支えないよ。荷物もって歩かなくて済む方が助かる。雨も降ってるし」
 そうか、と答えたところで信号が青に変わる。ゆるゆると車が動き出して、男もアクセルに足を乗せた。
「一本貰っていい?」
「ああ」
 運転席の男が片手で煙草を軽く振り、飛び出た一本を助手席の男が礼を言って取る。
「にしても、なんでんな可愛い煙草吸ってんだよ。もうオヤジなんだからマイセンとかにしとけば」
「彼女がこれにしろって言うんだよ。縁起が良さそうだからって。大体なぁ、オヤジって、俺はまだ二十代――」
「はいはい」
 適当に相槌を打ちながら、貰った煙草にシガレットライターで火を点ける。
 休日と雨天が相まって道はかなり混んでいたが、それでもゆるやかには流れている。
「吸い終わる頃にはつくかな」
 煙と一緒に、男は助手席から独り言を流した。

 ■ □ ■ □ ■

『本部から北3』
『北3です、どうぞ』
『××町三番地で人が倒れているとの110番入電中。緊急走行で現場出向せよ、どうぞ』

 朝礼が終わり、署内のざわつきに混じって流れてくる無線の声に、真夏はコーヒーを淹れる手を止めた。だが当直の刑事が立ち上がるのを見て、慌ててコーヒーを矢代のデスクに置く。
「あ、僕たちも行きます」
「えぇ〜、俺も?」
 僕たち、と言ったところで、日野があからさまに面倒そうな顔をする。
「何言ってんですか、先輩。早く行きますよ」
「待てよ、仕事は他にも沢山あんだよ。ねぇ、係長」
 呼ばれて、コーヒーを啜っていた矢代がのろりと日野に顔を向ける。そしてにべもなく一言告げた。
「早く行け」
「……」
 日野がなんとも言えない顔をしながらも黙って立ち上がり、真夏は小さくため息をつくと、上着を羽織った。

 現場に着くと、地域課の警官が黄色いテープを張っていた。それに締めだされる野次馬の中に、真夏が見知った姿を見つけて顔を上げる。 「あ、あれリコチャンじゃね」
 日野も同じ人物を見つけたようで、そんな声を上げる。
 彼女は野次馬達の一番前にいて、救急車に乗せられていく人物を食い入るように見ていた。近づいてもこちらに気付く様子はない。
「タバコ……」
「え?」
 真夏が声をかけようとすると、その前に独白のような彼女の声が野次馬の喧騒を縫って聞こえてくる。なんのことかと莉子の視線を追うが、現場に煙草が落ちているわけでも、立ち並ぶ店の中に煙草屋があるわけでも、通りに灰皿があるわけでもない。
 思わず真夏が聞き返すと、莉子はそこで初めてこちらに気がついた。
「あ、佐藤さんに日野さん。おはようございます」
 軽く莉子が会釈をして、その頭でぴょこんと尻尾が跳ねる。真夏は、さっき何と呟いたのかを聞こうとして口を開いたが、その前に日野が彼女に声を掛けていた。
「リコチャン、学校の時間じゃないの〜。補導しちゃうよ?」
「あ、いけなーい」
 日野の口調はふざけていたが、言われてみればもうそろそろ授業が始まっている時間だ。莉子もセーラー服を着ていて、携帯で時間を確認するなり慌てた顔をした。
「日野さんに補導されるとやらしいことされそうだから、学校行きます〜」
 そんなことを言いながら、莉子は少し離れたところに置いてあった自転車まで駆けていき、そのまま走り去って行った。
「ひっでぇ……」
「日頃の行いですよ」
 心ない台詞を浴びせられて嘆く日野に、真夏がここぞとばかりに止めの一言を叩きこむ。日野のことを先輩として尊敬はしているが、悪ふざけがすぎるのが玉に瑕なのだ。
 打ちひしがれる日野を置き去りに、真夏はテープを貼っていた警官に声を掛けた。
「お疲れ様です。どういう状況か教えて頂けますか?」
「ん、ああお疲れさん。そこの喫茶店から出てきて倒れたみたいだね。息はあって今救急車で搬送されてったよ」
 丁度テープを貼り終え、野次馬達を散らしながら警官が答えてくる。真夏は軽く頭を下げて礼を述べ、日野に伝えようと振り返った。だが、さっき立ちつくしていた場所にもう彼はおらず、日野を探して視線を走らせると、野次馬の一部と話をしている。どうやら聞きこみをしているようだ。それを確認して真夏は表情を引き締めると、カメラを取り出して現場の撮影を開始した。