それから数日が過ぎた。
真夏はいつものように出勤して、いつものようにコーヒーを淹れ、それから自分の席に戻って書類に向かう。刑事といっても基本はデスクワークだ。ドラマのように、尾行したり張り込みしたり、ましてや銃撃戦をしたりカーチェイスしたりと、そんな華々しいものではない。実際には会社員と同じように、お茶汲みして書類を書いていたりする。
そんなわけで、昨日あった万引きの報告書を書いていると電話が鳴って、真夏は文字を書いていた手を電話に伸ばした。
「はい、北警察署刑事課佐藤です。あ、はい。はい。わかりました、お疲れ様です」
電話を置くと真夏は立ち上がり、急ぎ足で矢代のデスクに向かった。
「係長、こないだ××町で人が倒れていて通報が入った件ですが、彼の持ち物から毒が検出されたそうです」
電話の内容を伝えると、矢代は見ているのかいないのかわからない書類から顔を上げた。
「それで、病院の許可を得て被害者の体も調べたそうなんですが、右手の人差指と中指から濃い毒物反応が出たと、科捜研が」
「――タバコだな」
ぼそっと声を上げたのは日野だった。矢代がそちらを向いたので、真夏も彼を振り返る。その言葉に、真夏は既視感を覚えていた。それが何かを思い出そうとすれば、若い女性の声が今の日野の声にピタリと重なった。
「あ……」
思わず声を漏らしてしまう。だが、矢代と日野の視線を感じて、真夏は慌てて軽く首を振った。
「いえ、なんでもありません。とりあえず、殺人未遂の可能性も出てきましたし、もう一度被害者の周囲を洗い直してみます」
「そうだな。日野」
「え、俺は書類が……」
呼ばれて、日野が渋い声を上げる。相変わらずの日野の様子に真夏は苦笑したが、矢代は慣れた様子で淡々と聞き返した。
「急ぎか?」
「いえ、全然」
「行け」
短い会話の応酬の後に黙って日野が立ち上がる。
矢代から日野の扱いもひとつ学んだ真夏だった。
被害者の名前は池本秀一。二十九歳で大手の銀行に勤めている。真面目で誠実な人柄だが、かといって融通が利かない型物ではなく砕けた一面もあり、上司、同僚、後輩、誰からも評判は上々である。
実家は地方で、こちらの大学に通う弟、池本健太と二人暮らし。兄の秀一が倒れたときは旅行中だったが、報せを聞いて急きょ帰宅していた。
「とりあえず、もう一度弟さんに話を聞いてみましょうか」
日野は答えなかったが、とくに反対もされなかったので真夏は池本兄弟の住むマンションの方へハンドルを切った。
「すみません、先輩。○○町ってここを右折で良かったですよね?」
前に話を聞いたときは向こうから署に来てもらっていたので、マンションに行くのは初めてである。大体の方向は分かっても、さすがに細かいところは記憶が曖昧だ。車によってはカーナビがついているのもあるが、生憎今乗っている車にはそんな便利なものはなかった。
「ちっ、めんどくせーな。全部にカーナビつきにしろっての」
ぶつぶつ言いながら、日野が地図を開く。日野もよく知らないようだ。真夏が車を止めて地図を覗きこもうとすると、日野が手を振ってそれを止めた。
「この俺が特別にカーナビになってやるよ。さっさと行こうぜ。そこ左だ」
ありがたくその言葉に甘えた真夏だったが、途中でそれが間違いだったと痛感した。日野は案内が下手で、交差点に差し掛かってから今のところは右だの、曲がるところを随分過ぎてから行き過ぎただの、結局同じところをぐるぐるして随分時間をロスしてしまった。
先輩に案内を任せてしまうと、違うような気がしても中々言い出せないのが困りものなのである。
署を出て三十分、ようやく池本兄弟の住むマンションに辿りつき、真夏は大きなため息をついた。
「結構いいトコ住んでんだなぁ」
「××銀行っていったらかなり大手ですからね」
他愛ない会話をしながら、真夏はエントランスのインターホンで池本の部屋番号を押した。
『はい』
「あ、北署の者です。池本健太さん?」
『はい、そうですが』
「お兄さんの件で話が聞きたいのですが、今大丈夫ですか?」
『はい』
淡々とした返事の後に、エントランスの自動ドアが音を立てて開いた。池本の部屋は十階で、エレベーターを使って昇り、玄関のインターホンを押すとすぐにドアが開いた。
「毒だって?」
「ええ。お兄さんに恨みを持っている人に心当たりはないですか?」
警察手帳を出して名乗り、簡単な挨拶をしてから本題に入ると、健太は驚いたようなリアクションを見せた後、手を顎に当てて俯いた。
「……いえ。兄の交友関係はよく知らないんです」
「では、最近お兄さんに変わった様子とかはありませんでした?」
「俺は学生だから、兄が帰って来る時間もでかけてることが多くて、一緒には住んでるけどあまり会っていないんです。倒れた日も俺は旅行中でしたし、よくわかりません」
「そうですか……」
それからも二、三質問をしたが、結局これはという話は聞けず、真夏と日野はマンションを出た。
「真面目兄に不良弟ねぇ。案外弟が仕込んだのかもな」
助手席に乗り込みながら、日野がそんなことを言う。
確かに弟の健太は、髪は脱色していてピアスをしており、不良とまでは言わなくても所謂チャラ男という見てくれだった。話を聞く限り夜遊びもしているようだから、昼は学校に行っても寝ているのではないかとゆうに想像がつく。
「僕は一人っ子だからよくわかりませんが、そんなものなんですかね?」
「逆に俺は不良兄だから真面目弟がめんどくせェな」
昔は兄弟が欲しいとよく思ったものだが、日野が顔をしかめるのを見て、一人っ子で良かったのかもしれないと真夏は思った。