03:ビールと同僚


 ホームの階段を二段飛ばしに駆け上り、真夏は切れた息を整えながら車に飛び乗った。だがエンジンをかけてもなかなか日野が現れない。
 呼吸が正常に戻った頃にようやく現れた日野は、だが助手席のドアの前で煙草に火をつけた。
「な、何してるんですか先輩。急がないと」
「んな急がなくても、もう署の奴が向かってるって」
 窓を開けて急かす真夏に、日野は煙と一緒に間延びした声を吐きだした。その様子に呆れながらも、そう言われてしまえば真夏も納得して大きく息をつく。痴漢の現行犯逮捕を報せる無線を聞くともなしに聞きながら、真夏はぼうっと短くなっていく日野の煙草を眺めていた。と、急に日野は煙草を地面に押し付けると、胸ポケットを探りだす。
「はい、日野です。……今現場で防犯カメラを見ていたところですが……はい。はい。了解しました」
 取りだした携帯に向かって二言三言喋ると、日野は携帯灰皿に煙草を放りこみ、舌打ちしながら助手席に乗り込んできた。
「どうしたんですか?」
「係長が、例の現行犯逮捕のやつに向かってマルヒを連れてこいだと。いけしゃあしゃあと『お前ら今どこにいる〜?』だぜ。あの昼行灯、やる気ねえな」
「先輩、そのうちほんとに怒られますよ」
 嘆息しながら、真夏は赤色灯を車の上に乗せてギアを一速に入れた。ウゥン、とサイレンが唸りを上げた。

 被疑者は、真夏に輪をかけて気の弱そうな、二十代そこそこのサラリーマン風の男だった。取り調べ室の椅子が大きく見えるほど小さくなって腰掛け、今にも泣きそうだ。これ以上委縮させないようにだろう、日野の声はいつになく優しかったが、それでも声を掛けた途端に両目に涙が盛り上がった。
「本当にあの人がやったんでしょうかね。とてもそんな風に見えませんでしたが……、なんだか気の毒でしたよ」
「んー、まあでも痴漢なんて気の弱い奴がやるもんだろ」
 相変わらず間延びした日野の声を聞きながら、真夏はもう一度取り調べを振りかえっていた。被疑者の名は須々木誠一。二十二歳、入社したての新卒サラリーマンだ。恋人もいて、仕事に慣れたら結婚すると約束している。それを涙ながらに語った後、最後に彼は一言、こう言ったのだ。
「それでも僕はやってない……か」
「そんな映画あったよなー。あれ、結局有罪だったっけ?」
 あくまで雑談のノリを続ける日野に、真夏はため息をつく。
 被疑者にいちいち同情していては仕事にならないのは分かっているが、須々木の家族や婚約者を思うとやはり気の毒だった。
「ま、これでこのところの連続痴漢事件も解決だ。帰りに大将ンとこで一杯やって行こうぜ」
 ぽん、と肩を叩かれる。
 励ましてくれているのはわかったが、とてもそんな気分にはなれなかった。

 ■ □ ■ □ ■

 終電はガラガラだったが、真夏は座席の一番端に浅く座ると、だらしなく背もたれに体を預けた。そんな気分でなくとも先輩に誘われれば断われず、例のラーメン屋で飲んだビールが定食を押し出そうとして胃の中で戦争している。
「あれ? もしかして佐藤じゃないか?」
 だが不意に声を掛けられ、真夏は閉じていた目を渋々と開いた。声の方を向くと、向かいの席の真ん中に座っていたスーツの男が笑いながらこちらを見ていた。
「やっぱりそうだ。まさかと思ったら佐藤まさかじゃないか」
「……ああ、えっと……吉岡?」
 幼稚園の頃から何度言われたかわからない、聞き飽きたジョークはもう挨拶と思って流している。目をこすりながら相手を確認すると、警察学校時代の同期だった。
「久しぶり。今どこだ?」
「西区。佐藤は?」
「今年異動があって北区になったよ」
 地下鉄が停車し、大きく揺れる。思わず口を押さえた真夏を見て、吉岡はからからと笑った。
「相変わらず弱そうだな」
「どうにも、ビールが旨いと思えない」
「お子様だなぁ」
 近くの乗り場から、派手な女が一人乗車してくる。彼女は向こうの、誰も座っていない座車両へと姿を消した。その間に、吉岡も真夏の隣に席を移動してくる。
「最近痴漢が多いんだよな。いつもこんだけガラガラなら仕事も減るのに」
 それを見るともなしに見ながら呟いた吉岡に、真夏は一瞬吐き気を忘れて顔を上げた。
「そっちもか? 俺んとこもだよ。けど今日逮捕された」
「えっマジか?」
「同一犯なら、少しは忙しくなくなるだろ」
「そうか、そりゃ助かるな。今日もさて帰ろうかってときに一件入ってきて、こんな時間だ」
 吉岡はほっとしたように笑ったが、その言葉を聞いて真夏は前言を翻すことになった。
「あ……、いや、悪い。なら同一犯じゃないな。逮捕があったのは朝だから」
「なんだ、そうか。痴漢は厄介だよな。一度逃がしたらよっぽどつかまんねーし、かといって捕まえたら冤罪だと言われるし」
「うん……」
 吉岡は次の駅で降りていった。
 真夏は地下鉄を降りると、背広の内ポケットから携帯を出し、リダイヤルから親しかった元同僚の名前を探して発信ボタンを押す。五回ほどコール音が鳴って、相手が出た。
「あ、ごめん。今日仕事? ……そうか。ああ、俺も今帰り。ちょっと聞きたいことがあってさ……。あのさ、今そっちでも痴漢多発してる? ――うん。うん、そうか。ありがとう。疲れてるとこ悪いな。ああ、次の休みには飯でも行こう」