事件はまだ終わらなかった。
その日、二件目の逮捕が入った。また現行犯逮捕の報せを受けてかけつけると、今度は中年の男がすっかり動転した様子でパトカーに乗せられていた。
名前は戸川隆平、五十四歳、会社員。彼が現行犯逮捕されたのは女性専用車両で、とても言い逃れができない状況だった。
だが、取り調べになると戸川も犯行を否認した。
「しかし、あなたが乗っていたのは女性専用車両ですよ。そもそもどうしてそんなところに乗ったんです」
尤もな日野の問いに、戸川はズボンからハンカチを取り出すと、額に浮かんだ大粒の汗を拭った。
「普段は地下鉄を使わないんです。今日はたまたまバスに乗り遅れてしまったので地下鉄に乗りました。私が以前乗ったときは女性専用車両がなかったですし、何より慌てていて……」
そのハンカチは、そのまま目元に当てがわれることになった。
「今日は大事な商談があったんです。なのに出勤できなかっただけでなく、痴漢だなんて……。妻や娘に何と言えばいいんだ……」
恐らく妻が持たせてくれたのであろうハンカチを握りしめ、戸川が恰幅のいい体を震わせる。その姿を見て、調書を作りながら真夏は何度目かわからないため息をついた。
「先輩。戸川は白なんじゃないでしょうか。大事な商談がある日に痴漢なんて、普通しませんよね? それに戸川が嘘をついているようには見えません」
「それを言うなら、大事な商談があるのにバスに乗りそびれるのだって不自然だろ」
「そう、かもしれませんが。遅刻は何か理由があったのかもしれません。商談の話が本当かどうかはすぐ裏が取れますし、遅刻の理由がはっきりすれば……」
尚も言い募る真夏を、日野はさも面倒くさそうに一瞥してから踵を返した。
「戸川はもう容疑者じゃない、被疑者だぞ。あと俺達がやるのは留置手続きくらいだ」
冷たく吐き捨てられて真夏は尻込みしたが、調書を作成するのに聞きたいことがあったのを思い出し、仕方なく日野を追い掛ける。日野はそのまま署の外に出て、煙草に火をつけた。
真夏は煙草を吸わないので、ただその横で調書を手に立ちつくす。質問したかったが、日野の機嫌が悪いので声をかけづらかった。日頃ふざけているだけに、口を噤まれると異様な雰囲気になる。
「戸川が嘘をついていなかったとして。じゃあお前は被害にあった女の子達が嘘ついてるって言うのか?」
はっとして、真夏は俯いた。
泣きじゃくる女の子を、婦人警官が慰めていた光景を思い出す。彼女らもまた、嘘をついているようには見えなかった。
須々木の状況ではまだ間違いの可能性もあったが、戸川の場合、被害者の周囲に男性は戸川しかいなかったのだ。どちらかが嘘をついているとすれば戸川であるのは明白だった。
「確かに痴漢冤罪は深刻な問題だよ。だいたいはちゃんと立証できないまま有罪になっちまう。だが、グレーだからって白にしてたら今度は女性が泣き寝入り、痴漢は大喜び満員電車は無法地帯だ。だから女性専用車両を作ったりして対策しているのに、あのおっさんはわざわざその中に飛び込んでんだぜ。救いようがねえよ」
「でも、だからって……」
「あぁもう、うっぜえな!!」
珍しく日野が怒声を上げて、真夏はびくりと傍目にもわかるほど肩を跳ねさせてしまった。
「お前がどうこう言わなくたって、司法のプロが威信をかけて今も戦ってんだよ! お前はなんだ、マルヒもガイシャのことも全然知らねえ上に、詳しい法律なんか地方公務員法くらいだろうが! 知らねー奴が感情論わめいて何になる。まだ調書ひとつろくに仕上げらもしねーのによ」
煙草を灰皿に押し付け、日野がギラリと真夏を睨む。別人のような目だった。
「憤ってんのが自分だけだと思うなよ。それでも俺達は仕事するしかねーんだ。周囲にどんだけ罵られようと、職務を遂行するのが俺達の仕事なんだよ。分かったらいちいち被疑者に感情移入してねえで、とっとと仕事しろ!」
そう言い残して日野は署内に戻って行った。彼が灰皿に置いた吸殻はまだくすぶっていて、のろのろと手を伸ばしてそれを完全に消化する。涙が出そうなのは、煙が目に染みているのだと言い聞かせた。
それから提出した調書は、全然駄目だと矢代に突き返された。