02:コーヒーと刑事


 佐藤真夏(まさか)。冗談のような名前は、苗字が平凡だったからせめて名前は、と思ってつけたのかと深読みした日もあるが、親に聞いてみたらやはり、単に真夏に生まれたからというだけだった。名乗った後には必ず「そんなまさか!」というリアクションがつきまとい続けて二十四年。昨夜も例に漏れず、ラーメン屋の親娘に揃って同じ反応をされた。
 就職してからは、さらに突っ込みが増えた。
 職業を聞かれて警察官と答えようものなら、もう一度「そんなまさか!」である。その為真夏は職業を聞かれたら大抵公務員と答える。そう言っておけば、勝手に役所の人間だと思われる。そんな真夏は、この春から異動で刑事になり、まさかと言われる要素がまたひとつ増えた。出勤する署が少し遠くなったのもあって、今までより三十分早く地下鉄に乗り込む。
 まだ通勤ラッシュの時刻には早く、ゆうゆうと座席に陣取っていると、うとうとしている間に下車する駅名がアナウンスされる。慌てて飛び降りひと息ついて時計を見る。六時四十五分。駅から署までは徒歩五分もないから、コンビニで朝食代わりのゼリーを買って飲み干し、真夏が署の扉をくぐったのは七時丁度だった。
 当直の署員に挨拶をして、上着を自分のデスクに掛けておもむろに掃除を始める。
 刑事といえば聞こえはいいが、真夏はまだ勤続二年の下っ端だった。所謂キャリア組というものでもない。たまたま異動先で刑事が不足していた為に、希望も出していないのに成り行きで刑事になった。高い志を持って刑事を目指している警察官が聞いたらさぞ嘆くことだろうと、真夏はよく申し訳ない気持ちになる。警察学校時代の同期にも、そんな仲間は多くいた。
 掃除を終えると、再びデスクに戻って上着を羽織りなおす。既に、先輩達は出勤している。そろそろ上司が来てもおかしくない時間だ。外に目を向けると、丁度上司の姿が見えて、真夏は背筋を正した。
「おはようございます!」
 挨拶のあとは、いそいそとコーヒーを淹れに向かう。
 会社員の父にはこの仕事を度々羨ましがられるが、やっていることは会社員の下っ端となんら変わりないとは中々言い出せないでいる。とはいえ、安定した収入に引かれてこの仕事をしているに過ぎない真夏は、難事件を追いかけるよりは掃除とお茶汲みをしている方が気が楽だ。  淹れたてのコーヒーを持って、上司である矢代警部補の席に向かうと、矢代は書類に目を通しながらぼそりと呟いた。
「また痴漢か……」
「ええ、またですか? 最近多いっすね〜」
 応えたのは先輩の日野である。昨夜ラーメン屋(定食屋?)に連れて行ってくれた五つばかり年上の男で、階級は巡査長だ。
「そうだな。佐藤、お前これやっとけ」
「あ、は、はい」
 そんな言葉と共に唐突に書類を突きつけられて、真夏はコーヒーと交換する形で書類を受け取った。
「日野、佐藤の面倒見てやれよ」
「了解です」
 日野の方に会釈をしながら、真夏はデスクに戻ると早速書類に目を通した。矢代が言ったとおり痴漢の案件で、場所は自分が乗ってきた地下鉄の沿線、自分が下りたふたつ手前の駅になる。
「近いな。とりあえず行って、防犯カメラでも確認してみっか」
「はい」
 後ろから覗きこんできた日野に声を掛けられ、真夏は席を立った。

 ■ □ ■

「真夏〜、朝飯食ってからいかね?」
 朝真夏が朝食のゼリーを買ったコンビニの前で車を止めて、日野がそんな声を上げる。
「え、いや……自分は食べてきましたが」
「そうなんだ、俺寝坊しちまったからまだなんだよな。何食ったの?」
「十秒チャージを」
「はぁ? そんなんでよく持つな。お前もなんか食えよ。日本人なら朝は米だ」
 そろそろ九時に差しかかる。朝食にはやや遅く感じたが、そんな些細なことで逆らって先輩の機嫌を害してもなんのメリットもない。言われるままコンビニでおにぎりとお茶を買って、再び車に乗り込んだ。
 それから買ったものを胃に納めながら件の駅に向かい、真夏と日野は手続きを済ませて防犯カメラをチェックした。
「この子が被害に遭った子ですね」
「あーあー。こんな短いスカート履いてたら、そりゃうっかり魔が差しちまうよなあ」
「ひ、日野先輩。そんなこと言って、誰かに聞かれたらどうするんですか」
 丁度そんなときにバタンと扉が開いたもので、真夏は驚いて椅子から転げ落ちそうになってしまった。不謹慎なことを言ったのは日野の方であるのに、彼の方はけろりとした顔で駆けこんできた駅員を見ている。どうして自分が慌てなければいけないのかと気を取り直すが、駅員の慌てた様子を見て、またおろおろしてしまう真夏であった。
「どうかしましたか?」
 多少お調子者の気があるとはいえ、そこはやはり経験で勝る日野が、落ちついた声で駅員に問いかける。その様子を見て、駅員からも慌てた様子はすぐに消えた。
「刑事さん、隣の駅で痴漢が捕まりました。すぐに向かってくれませんか」
 思わぬ言葉に、真夏と日野は顔を見合わせた。