FAKE ROMANCE 9



 あれほど嫌いだった夜が待ち遠しいと自覚したとき、また夜が怖くなった。
 胸を灼くような理不尽な想いを忘れそうになっていることに気づいたとき、行き場のない苦しさがひとつ増えた。
 どこまでも報われない痛みについて誰を詰ることもできなくて、ただただ日々は息苦しく、朝も昼も冷たいだけ。それを思い知って、少女はひとつの決断をした。

 そして夜。
 早く過ぎるよう祈っても、時間が止まるよう願っても、決してそれが叶えられることはない。たったひとつの小さな願いすら叶えてくれない神様が、そんなに気の利いたことをするわけもない。なのにどこまでも詮無いことを考える自分の愚かしさを自分で嗤って、リーゼアは暗闇のなか騎士宿舎の廊下を歩いて行く。一番奥の扉の前で立ち止まり、手をかけてから、少し躊躇する。そしてどこまでも思い切りの悪い自分にため息を吐き、同時にそんな自分なのに、"あの決断"を即日実行に移したことには自分が一番驚いていた。しかしそれも、今みたいに後悔して決心を揺らがせるのを避ける意味合いも強かった。
 だから、もう迷っても意味はない。そう自分に言い聞かせるようにして、リーゼアは扉を開けた。
 灯りが落ちた部屋は、それでもカーテンを通した月明かりでうすぼんやりと明るい。コバルトブルーに塗られた部屋の中に銀色を探す。ベッドに腰掛けて、抱きかかえた刀に頭をもたれさせて、うっすらと彼は微笑していた。
「今日は襲わないの?」
 鞘に納めたままのこちらの剣に視線を当てて、ティルがそんな言葉を投げかけてくる。
「――勝てなきゃ意味がないんだろう。このまま仕掛けてわたしに勝ち目があるか?」
 目を逸らし、淡々とリーゼアはそう返した。だが見なくても、ティルが立ち上がったのが気配と音で伝わってくる。
「じゃー何しにきたわけ? 来るなって言ったよね、俺」
「……もう来ない」
 視線を外したまま、俯いて呟く。ちゃんと顔を見て、きっぱりと言いたかったのに、ここにきてその勇気が出なかった。
 だから、何も言ってこない彼がどんな顔をしているのかは解らない。それでもまだ顔を上げられず、リーゼアは言葉を続けた。
「家督を継ぐことにした。……正確には、継ぐのはわたしの夫になる者だが。だから親衛隊も今期で辞める。ここにももう来ない」
 声は震えなかった。涙も出なかった。だが顔を上げることだけができなかった。俯いて、床と会話するように、ひたすら下に言葉を投げつける。
「……そ」
 ようやく返ってきた言葉はたったそれだけだった。予想していた筈なのに、体が震える。それをかき消すように、リーゼアはぎゅっと両手を握り締めた。覚悟を決めて顔をあげる。見据えた彼の表情がさっきと同じなのも、予想済みだった。だからなんとか震えを殺して、胸をかきむしるような痛みにも目を瞑る。
「お兄様は家を嫌っていらっしゃるから。わたしがレゼクトラ家を継げば、お兄様の負担が減るし、何気兼ねなく自分の道を選べる。……わたしがお兄様のためにできるのは、それだけ。それは前から解ってた。なのにできなかったのは、別になにか期待してたわけじゃなくて、お兄様が家を離れていくのが嫌だったから、ただそれだけで、でも」
 理由など訊かれていないが、リーゼアは喋り続けた。そうしていないと、震えも痛みも、誤魔化せそうになかった。
「……わたしは貴様のように強くないから……振り向いてくれない人を想うのは、もう疲れた」
 そして、痛みをそのまま言葉に乗せる。精一杯の告白だったことに、彼が気づかないことを祈って、逃げ出したい衝動をこらえる。この場からだけでなく、自分の決断すべてから逃げ出したかった。だがそれ以上に、報われない自分の気持ちから逃げ出したかったから、リーゼアは動かなかった。その代わりに、ティルがゆっくりと歩き出す。
 広くもない部屋で、あっという間に距離はつまる。長くもないのに永遠かとも思える時間を、リーゼアは震えと戦った。流れる時間は決して止まることはないし、哀しいほどに一定だというのに、どうしてこんな時間だけは残酷なほど長いのだろうと思う。
「リズちゃんが何を思って何をしようと自由だけどさ」
 その果てに、ため息交じりの声がおちてきても、リーゼアがすることは変わらなかった。逃げ出さないように、震えないように、決めた覚悟を決して揺らさないように、歯を食いしばる。
「どうして俺にそんな話するの?」
 勇気を振り絞って顔を上げたというのに、すぐ傍まで歩み寄られ、さらに見上げないと表情が見えない。もう一度顔を上げる気力をかきあつめていたのだが、ティルの声に責めるような色が混じったので思わずリーゼアは彼を見上げた。その表情から笑みは消えていた。冷たい感触が頬を撫でて胸がざわめく。泣いてなどいないのに、涙を拭うように、ティルが頬に触れてくる。
「俺は優しい言葉で慰めてあげられるほど器用でもないし、イイ人でもないよ」
 脅しまがいのことを囁かれるが、リーゼアはそれを罵ることも、手を振り払うこともしなかった。そのことに苛立ったのだろう、それまで優しく触れていた手が少し強張った。
「……もしかしてリズちゃん、俺のことそーいうイイ人だと思ってる?」
「まさか。貴様のどこを見たらそう思えるんだ」
 軽口を叩きながら、リーゼアは微笑った。笑えたのは、ティルの言葉にではなく、軽口を叩ける余裕があることにほっとしていたからなのだが、それを知らないティルにとっては苛立ちを増す意外の何にもならないだろう
「じゃー、どーしてそんなに平然としてるわけ」
 普段どおりのふざけた口調に、隠せない苛立ちが滲んでいる。それとは対照的に、リーゼアはすっかり落ち着きを取り戻していた。もう、強がらなくても震えないし、涙も出ない自信があった。
「――賭けをしているから」
 だから、今度はちゃんと顔を見て、ありのままを言えた。
 表情に疑問符を浮かべたティルに、微笑みを消さないまま、言葉を繋げる。
「偽りにでも――愛なんかなくても――貴方がわたしを見てくれるなら、この話はなかったことにしようと思ってた。だけどそうじゃないなら、哀しいだけだから。振り向いてくれない人を想うのは、もう疲れた」
 さっきと同じ言葉を繰り返すと、触れていた手が離れた。気づいたのだろう。振り向いてくれない人が、誰を指すのか。だが、もう構わなかった。こんなに近くで見つめあっても、彼の瞳が何も映していないから。
 その寒い瞳が、だけど燃えるように滾る瞬間を、リーゼアは知っている。だからこんなにもやるせない。
「同じ痛みを知っているなら傷を舐め合えるかもしれないと思った。でも、貴方はそうじゃなかった。貴方は酒にもわたしにも決して酔わないし、ひとときすらも姫様を忘れられない。……そのことに、貴方ももう気付いてるでしょ? だから来るなと言ったんでしょう?」
「…………」
 ティルは何も答えなかったが、答など必要なかった。リーゼアは目の前にある白いシャツに縋りつくように顔を埋めた。伝わってくる彼の鼓動は驚くほど静かだ。
「抱けないなら、もう惑わせないで」
 穏やかな悲鳴を口にする。あんなに簡単に抱きしめたり口付けたりしてくるくせに、こちらから触れても触れ返してはくれない。悔しさに涙が出そうになったが歯をくいしばって耐えた。
「……抱けないわけじゃない。けど、そうすればリズちゃんは後悔するよ」
「しないわ」
「するよ。リズちゃんは寂しかっただけ。誰かに縋りたかっただけだろ?」
「…………」
 リーゼアが黙り込む。それを見てティルは寂し気に笑った。その言葉はかつて彼自身がかけられたものだった。だからそれがどれほど相手を傷つけるかわかっている。わかっていてあえて口にしたのだが。
「……それの何が悪いの?」
 リーゼアは言葉を失ったわけではなかった。目を見開いてティルを睨みつける。
「誰だって孤独が嫌だから誰かを求めるんじゃない。だけど、誰でもいいわけじゃないわ。ふざけないでよ」
「…………そう、かな」
 ティルはようやくそれだけの言葉をつぶやいた。だがリーゼアはいとも容易く頷いて見せる。
「そうよ」
「でも、リズちゃんはちゃんとリズちゃんを見てくれる人を選んだ方がいい」
「……こんなときだけイイ人ぶるのね」
「そうだな……ごめん」
 詫びながら、ティルは所在なく自分の髪を弄った。それを見るともなしに見て、リーゼアは彼から体を離した。
「……貴方はズルい。もうわたしに触れてもくれない」
「リズちゃんもズルいよ。あんなによく泣くのに、今夜は涙も見せやしない」
 拗ねるように言われて、リーゼアはふと笑った。あどけない顔なのに、その笑みがやけに大人びていて美しく、それが酷く印象的で、ティルはそれ以上の言葉を失くした。
「さよなら」
 リーゼアにしてもほかに言葉は見つからず、そして探すほどの余裕まではさすがになく、別れの言葉のみを呟く。宿舎を出て自分の部屋に戻るまで、リーゼアは一度も降り返らなかった。
 
 家に帰ると、今まで平然としていたのが嘘のように、涙が堰を切って溢れた。歩けないほど体が震え、うずくまると声を殺してリーゼアは泣いた。泣き虫と言われているほどよく泣くというのに、それでも今まで流した涙を越えるほど、泣いた。