FAKE ROMANCE 8



「リズたん、恋でもしてるの?」
 唐突な父の言葉に、リーゼアは持っていた皿をすべて、床へと落下させることになった。

 早朝、レゼクトラ家のダイニングから、けたたましい音が響く。
 一家全員城勤めのこの家は城の敷地内にはあるものの、ライゼス以外はあまり家には帰らない。というのも、父ヒューバートは近衛総隊長、母エレフォは国王の相談役、そしてリーゼアが親衛隊副隊長とそれぞれに多忙だからである。
 しかし、今日は朝の時点でヒューバートとリーゼアが家にいたので、ライゼスが朝食を作っていた。
 エレフォとリーゼアの家事の腕が壊滅的、料理に至っては殺人的なので、レゼクトラ家の家事は全てライゼスが取り仕切っている。それを申し訳なく思いつつも、せめて何か手伝おうと皿を出していたリーゼアだったが、かえって邪魔をする羽目になってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
 泣きたい気分で、慌てて皿の破片に手を伸ばすのを、ライゼスが止める。
「危ないですよ。後で僕が片付けますから」
「でも、リズが割ったのに……」
 実際に涙が溢れてきてしまって、リーゼアはぐすぐすと鼻を鳴らした。
「いいですよ、仕事に遅れてしまうでしょう。……本当に、リズは泣き虫ですね」
 ライゼスが屈んで、微笑みながら頬を伝う涙を拭う。それを見上げると、突然銀色の髪と青い瞳がフラッシュバックした。
(泣かないで)
 そう言う声がよみがえってきて、ドキリと心臓が跳ねる。それを誤魔化すように、リーゼアは勢いよく立ち上がった。
「リズ?」
「あ……」
 驚いたような顔で、今度はライゼスがリーゼアを見上げる。兄に触れられるのは好きなのに、それを跳ねのける形になってしまってリーゼアは焦った。自分で自分の行動が信じられなかった。
「ち、父上が変なことを言うから……!」
 そして、今度はそれを全部父に押し付ける。責任転嫁されても、ヒューバートはのほほんとしたまま言葉を返してきた。
「だって〜。最近妙に元気だし、こないだの休みは珍しく城下町なんか行って男物の服なんか買ってるんだし、今日なんて朝帰りだったじゃない〜。かと思ったら元気ないんだし、こりゃ男だなあと思うでしょ〜」
「な、な……ッ!」
 言葉にならない呻きをあげてリーゼアが絶句する。いつもなら、何故そんなに自分の行動を把握してるのかと父に突っ込むところだが、そんな余裕も今はなかった。
 確かに恋はしている。それは認める。だがヒューバートが今しがた言ったことに関する男が相手では、決してない。自分が恋焦がれる相手は、あんな男では断じてない。
「ちちちち違います!! あんな軽薄でいい加減な女好きの変態、誰が……!」
 たっぷり十数秒置いてから、ようやく言葉を搾り出し、だが間近でこちらを見つめる視線を感じてリーゼアは失言を悟った。
「軽薄でいい加減な女好きの変態って、まさか……」
「違います!!」
 その形容にぴったり思い当たる人物がいて、ライゼスは唸った。だが、最後まで言い終える前に、必死の様相でリーゼアが叫んで止める。
「違います! リズは……リズは恋なんてしてません! リズは、恋なんてしません!」
 兄の目をまともに見ることもできないまま、叫び続ける。そしてそのままリーゼアは家を飛び出した。
「……いや〜、あれは恋だね。恋する瞳ですね」
「マジですか……僕はあんな義弟は死んでも御免ですよ」
 猛ダッシュで駆けていくリーゼアを見送りながら、ヒューバートが呟き、ライゼスは蒼白になった。
「なになに心当たりあんの?」
「いや勘違いだと思いたいです。……それに」
 言いながら、ライゼスは複雑な表情をした。
 もし予想通りの相手であったとしたなら――自分が懸念せずともその恋は成就しないだろう。
 だから、思い違いであって欲しかった。妹が、傷つかないために。

「父上の馬鹿父上の馬鹿父上の馬鹿!!!」
 連呼しながらリーゼアは城への道を辿っていた。父の言葉と、目の裏にこびりついたように離れない銀と青を、振り払うように激しく頭を振る。それをずっと続けているので、気持ち悪くて目眩がした。
「わたしが……! わたしが好きなのは……」
 あんな凍りつくような冷たく虚ろな青ではなく、穏やかに微笑むライラックの優しい瞳だ。なのに、父の言葉を完全に否定することもできなかった。眠れない夜は間違いなく減った。悔しいが、それがティルのお蔭であることは認めざるを得ないからだ。昨夜だって――
 ――そこまで考えて、リーゼアは歩みを止めた。いや、止まってしまった。思い出してしまって、顔が茹でられたように熱くなる。酒に酔って記憶がないという話をよく聞くが、それが心から羨ましかった。匂いだけで酔えるほどリーゼアは酒に弱かったし、酔うと必ず変なことをしてしまうのだが、それによって記憶を無くせた試しがない。それは昨日も同じだった。
 夜が明ける前に目覚め、覚えてないフリで逃げるように帰ってきたが、実はひとつ残らず覚えていた。どうにか忘れようと努めていたのに、これも父が余計なことを言ったせいで思い出してしまう。
 だがそうして記憶を遡ると、熱かった顔はやはり一度に熱を失ってしまった。
 セラ――と。堪らなく愛しそうにそう呼ぶ声が蘇ると、いてもたってもいられない。兄に焦がれて眠れなかった夜のように、強く胸が締め付けられて、リーゼアは固く両手を握り締めた。
「……好きになんて、ならない。だってあの人はどうせ」
 ――姫様しか見ていないのだから。
 じわり、と涙が滲んだ。
 みんなセラが持っていってしまう。
 そんなことを考えてしまって、リーゼアはまた慌てて頭を振った。考えるだけでも許されないことだ。王女親衛隊(プリンセスガード)に所属するリーゼアにとって、セラは忠誠を誓い、剣を捧げた主君である。
 どんなに頭を振ってもつきまとってくるセラへの嫉妬と羨望を、それでもどうしても振り切ろうと、リーゼアはまた駆け出した。前も見ずに全速力で走った。結果、派手に躓いて顔面からスライディングし、ついでに城壁に頭をぶつけた。
「……ふ」
 あまりの見事な転びっぷりに、惨めや情けなさを通り越し、思わず笑ってしまう。惨めで情けない以上に滑稽だった。少なくとも今日は何をしても空回りだろうことを自覚して、いっそ声を上げて思い切り笑い出したい衝動に駆られる。
 朝食を食べずに出てきたため若干時間が早く、あまり周囲に人気はない。実行しようかと息を吸い込んだところで、
「だいじょぶ? 頭打っておかしくなった?」
 頭上から降ってきた声に、リーゼアは吸った息を盛大に吹き出した。
「ティル……ッ」
 声の主を仰いで、視界に入った人物の名を呼ぶ。すると彼は驚いたように目を見開いた。
「?」
 それを怪訝な顔で見つめていると、ややあってティルは我に返ったように目を和ませた。今までに見たことのない、優しい表情に小さく心臓が鳴った。
「ん、いや。初めて俺の名前呼んだなーと思って」
「そっ……そんなこと」
 ないような気がしたが、そういえば呼んだこともない気がする。だが改めてそんな風に言われると酷くどぎまぎしてしまって、リーゼアはティルを直視できなくなった。目を逸らし、わざとぶっきらぼうな声を上げる。
「そんなことより、何の用だ? 用がないなら」
「忘れ物」
 逸らした視線の先に、その言葉と共に提示されたものを見て――リーゼアは息が止まった。
「これ忘れちゃ駄目でしょ。どうやって俺を殺すつもりなの」
 冗談めかしてティルが言うのも聞こえていなかった。差し出された自分の剣を、ひったくるように取って抱きかかえる。どうしてこんな大事なものを置いてきたことに今まで気づかなかったのか、騎士としてこれ以上恥ずかしいことはない。よほど呆けていたのだと、自覚せざるを得なかった。
「あと、昨夜はごめん」
 剣を抱えて唸っていると、思いがけない言葉をかけられる。無意識に、リーゼアは逸らしていた視線をティルへと戻した。いつになく元気のない表情で、転んでうずくまったままのこちらに向かって手を差し伸べてくる。少し迷ったが、大人しくその手を取った――のがやはり失策だったと痛烈に後悔したのは、立ち上がった直後に彼がにやりと、いつもの笑みを浮かべたからだった。行動だけはいち早く読めるようになったものの、だがやはり抵抗はできない。振り払おうとしても、それを許してくれよう筈もなく、その手を引かれて、とんと背中に城壁が当たる。顔を上げると、覆いかぶさるように壁に手をついたティルの顔が至近距離にあって、リーゼアは顔を背けた。
「こっち見てよ」
「断る!」
「どして」
「貴様の言うことに従う義理はない!」
「いいじゃん。綺麗な色の目してるんだから、近くで見せてよ」
 ティルの口から零れたそんな言葉に、だがリズは抵抗も忘れて固まった。ぎゅっと、思い切り目を閉じて、唇を噛み締める。
「リズちゃん?」
「嘘だ、綺麗なものか。貴様が言うと余計嫌味だ」
 美しく澄んだティルの碧眼を睨み付け、吐き捨てる。すると、ふと彼は真剣な顔をした。今まで見せたことのないような表情ばかり見せられると、撹乱されそうになる――
「綺麗だよ。俺なんかよりずっと」
 真顔で言われ、リーゼアは息が止まりそうなほど恥ずかしくなった。絶世の美貌を持つ人物にそんなことを言われても惨めなだけなのだが、真剣な――そしてどこか傷ついたような――彼の表情を見ていると、それを言ってはいけない気がした。
「……そうやってからかっていればいい」
「からかってなんかいないよ……少なくとも今はね。リズちゃん可愛いし一緒にいると退屈しないし、俺リズちゃんのこと好きだよ」
「……ッ」
 心臓が爆発するのではないかと思うほど激しく脈打つ。だが、見上げた彼がこちらを見ていないのに気が付くと、嘘のように鼓動は静まった。
「だけど、もう俺の部屋には来ないで」
 だから、その言葉も思ったより落ち着いて聞けた。
「……殺しに来ていいと言ったのは貴様だ」
「殺されるのは構わない。でも、昨夜みたいなこともうしたくない」
 昨夜を思い出すと、その名を口にした彼の顔を思い出すと、今でもリーゼアは頭を掻き乱されるような感情に苛まれる。体が冷える。だけどそれでも、一人の夜の冷たさに比べたらずっといい。
「じゃあ……一人で夜を過ごしたくないときはどうすればいいの」
 知らず、言葉が滑り落ちていた。強がることもできないほど足が震えた。ずっと合わなかった視線をとらえたとき、リーゼアは気が付いた。いつの間にか自分が彼に縋っていたことに。
「……リズちゃん、口元切れてるよ」
「え」
 こちらを見たティルが口にしたのは、問いかけの答えではなかった。が、さっき顔面から勢いよく転んだのを思い出して口元に手を当てる――その前にティルに腕をつかまれる。
「とりあえず昨夜のお礼しとく」
 突然唇が塞がれて、リーゼアは目を見開いた。前のような一瞬ではなく、冷静になるほどの時間が経っても抵抗できない。というより、抵抗しようとしていない自分にリーゼアは驚いていた。しかし。
「――んん!?」
 唇を這う舌の感触がして、全力で彼の腕を振りほどく。口元を押さえると手の甲に当たる唇は濡れていて、リーゼアは気が遠くなった。
「…………。まっこれも治療目的だからキスには入らないよね」
「なっ、なっ……何をっ……!」
「だから昨夜のお礼……っていうか仕返しかなぁ。覚えてるでしょ、リズちゃん?」
 首元に手をやりながら、ティルがニヤリと笑う。意地悪い笑みを向けられてリーゼアは言葉に詰まった。しらを切り通せばいいだけなのにすぐ顔に出てしまってどうしてもそれができない。
「じゃーね」
 一方的に言いたいことだけ言って、彼はこちらに背を向けた。
 自分は足が震えて、顔が熱くて動けないというのに、彼は何事もなかったようにスタスタと歩いていってしまう。リーゼアは剣の柄に手をかけた。だが震える手はそれを抜けず、結局ただ見送るだけになった。