FAKE ROMANCE 10



 人の気配と、遠慮がちなノックの音に、ティルは目を開けた。眠っていたわけではない。むしろ一睡もしていないのだが、窓に視線を延ばしてみれば、随分と明るかった。カーテンの隙間から見える陽はかなり高い。長い筈の夜だったというのに、いつの間にか夜明けどころか昼になっていたことに驚きつつ、だが体を起こす気力はない。
「ティル。いないのか?」
「……いるよー……」
 その声を聞いてもなお、起き上がる気になれない自分にも驚く。
「私だ。入ってもいいか?」
「ダメ」
 うつ伏せになってシーツを頭からかぶったまま、普段の自分ではまずあり得ない答えを返してしまう。扉の向こうの人物――セラも、少し驚いているようなのが、気配で解った。鍵をかけてなければ断っても入ってきたかもしれない。セラはいつもノックなどしないし、窓から侵入してくることも多々ある。だから、ドアにも窓にも鍵をかけてカーテンを閉めていた。
「ちょっと体調が悪くて……」
 嘘を吐き出す声は弱々しく、我ながら具合が悪そうだと思った。気分が優れないのは本当なので、あながち嘘でもないのだが、そうでなくても彼女は疑ったりしないだろう。すぐに心配そうな声が返ってくる。
「医者を呼ぶか?」
「そんな大事じゃないよ。……もー少ししたら起きるから」
「そうか。じゃあ、いつものとこで待ってる。――といっても、別に何かあるわけじゃないが」
 了承と感謝の言葉だけ返すと、気配が遠のく。
 第九部隊の面子――即ちティルとセラとライゼスは、大体いつも宿舎の食堂で暇を持て余している。特にすることがないのでそうなるのだが、それでなくても、日がな一日セラにまとわりつくのがティルのライフワークだ。それが昼過ぎになっても姿を見せないから、心配して来てくれたのだろう。
 自然とほころんだ顔から、だがすぐにティルは表情を消した。嬉しかったし会いたかった。それこそ、死ぬほど会いたかった。だけど、だからこそ――会う気になれなかった。自分が酷く傷つけたであろう少女の泣き顔が胸に引っかかって、今すぐにでも部屋を飛び出してセラを追いかけたい自分を押しとどめる。
「……サイテーだな俺……」
 寝返りを打って仰向けになる。カーテンを通して部屋に満ちる陽の光が酷く眩しい。目を灼かれてしまいそうな錯覚に襲われて、顔を覆うために腕を伸ばすと、白いシャツの袖が視界に入って慌ててそれを引っ込めた。その白は太陽にも増して眩しくて、本当に灼きつくされてしまいそうだった。
 それでも。こんなにも昨夜のことが心に引っかかっていても、頭を占めているほとんどは、やはり昨夜のことではない。そのことが罪悪感に変わって胸を苛んでいた。結局は罪悪感でしかない。セラに会えないのも、リーゼアの泣き顔が引っかかっているのも。
 その証拠に、昨夜彼女は涙など見せなかった。だから、引っかかっているのではなく、無理やり引っ掛けようとしているだけだ。それならいっそ衝動のままに、セラの元へ行けばいいのかもしれない。――などということを、このままぐるぐると考えて導きだしたところで、それも詮無いことのように思えた。
 ――結局。
 リーゼアが言った通り、自分はもう何にも酔えないし何にも縋れないのだ。そうでなければ、何の躊躇もなくリーゼアを抱けただろう。そうしなかったのは、しかし彼女の為ではない。セラでなければ虚しいだけだからだ。ティルにしても、気を紛らわす為にリーゼアの相手をしていた。彼女も同じだと思ったから気が楽だったし、独りでない夜は心地良くもあった。だが、彼女に近づけば近づくほど、今度は徐々に虚しさが胸を食っていった。
 そしてそれを、リーゼアは見抜いていた。同じだと思っていたのに、彼女は違っていた。
 もう少し早かったなら、リーゼアでもよかったのかもしれない。そう思ったところで、ティルは再び寝返りをうつと、シーツに顔をうずめた。もしもを前提とした話はそれだけで詮無いし、そうでなくてもそれは有り得ないのだ。
 セラが初めて自分を見てくれたから、自分は生きてここにいる。今、自分を生かしている全てがセラだから。だから結局、頭を占めるのは全てセラになってしまう――。

 次に顔を上げたときには、夜の帳が下りていた。


 闇に沈む宿舎の中を、ティルは歩いていた。この時間になって着替えて顔を洗うのに違和感が付きまとう。これだけ無為に時間を流したのは初めてだった。そのまま寝てしまえば良かったのだろうが、そうさせなかったのは、待っていると言ったセラの声だった。
「……こんな時間まで、いるわけないんだけどね」
 仮にもセラは王女である。夜が更けても自室にいなかったら、いくらなんでも騒ぎになるだろう。
 口の中で独白しながら、いつもの場所へ向かう。だが、そこに気配を感じて、ティルは驚きに目を見開いた。
「セラちゃん……」
 明かりは持っていなかったし、セラも明かりをつけてはいなかった。だがティルは常人より遥かに夜目が利く。天性のものではなく、暗殺に備えて訓練されたものだったが、そうでなくてもこの気配だけは間違えない。何があっても間違えない自信があった。
 呼んでも彼女は答えなかった。暗闇の中で、机に突っ伏して、小さな肩が規則正しく上下している。――眠っている。
 その隣にそっと腰を降ろし、安らかな寝息を立てるセラを、ティルはただじっと見つめた。
 込み上げる愛しさが、それによって引き寄せられる罪の意識ごと、優しく包み込んで隠してしまう。
 だから何にも酔えないのだ。彼女の中毒性は、酒や他の女など比べ物にならないから。
 手を伸ばして、そっと触れる。狂わしい思いを飲み込んで、笑う。
 振り向いてもらえなくても想い続けていけるのは、強いからじゃない。
 弱いから、彼女がいないと生きていけない。それだけだ。
「……ティル?」
 小さな声とともにセラの頭が動き、ティルは触れていた手を離した。
「お姫様が、こんな時間にこんな場所にいちゃ駄目でしょ」
「抜け出すのは得意なんだ。あまり自室にいるの好きじゃないし、別に珍しいことじゃない」
「……待っててくれたの?」
 何でもないことのようにセラがそう言ったのは、恐らく気をつかったのだろう。だから、ストレートに聞いて見ると、案の定セラはすぐに頷いた。
「私は約束は破らない。だから信用しろ」
 しかし不意に出たそんな言葉に、ティルは不思議そうに首を傾げた。
「いや……セラちゃんを疑ったりしたことないけど」
「なら、嘘をつくな。何かあったんだろう? 言いたくないなら理由まで聞かないから、たまには弱音ぐらい吐いたらどうだ」
 あきれたように言われ、ティルは返す言葉を失った。およそ今までかけられたことのない類の言葉に、なんと返せばいいのかわからない。そんなティルを後目に、セラが欠伸をしながら椅子を降りる。
「帰るの?」
「ああ。さすがに夜明け前には戻らないと面倒だから。言いたいことも言ったし」
 そう言って宿舎の出口に向かうセラの後姿を、黙って見送る――つもりだった。だが。
「……もう少し、ここにいて」
 零してしまった言葉に自分で驚く。弱い部分など見せたくなかった筈なのに、そう思うと今度は苦笑が零れた。命を狙われていた日々よりも、今の方がずっと参っているなど、笑うしかない。実の親に向き合って貰えないより、実の兄弟に憎まれるより、近しい人々に疎まれるよりも、たった一人の少女に振り向いてもらえないことの方が、こんなにも孤独で心を苛むから。
 ふとすれば聞き逃しそうな小さな声は、だけどセラの足を止めた。
 そして、振り返った少女は、優しく微笑んだ。

 その笑みだけが、何かに縋りたい心を救う。それだけが、彼にとってのたったひとつの真実だ。