FAKE ROMANCE 7



 リーゼアは、自分の髪と瞳が好きではなかった。赤茶けた金髪は癖があり、瞳の色は、色あせた紫で、ほぼピンクに近い。この変な色の所為で、小さい頃は苛めにもあった。だが、何よりそんな自分が惨めになるのは、苛められたときなどでない。愛しい人と並んだときだ。
 短いが、さらさらの綺麗な金髪。リラの花のような、鮮やかで美しい紫の瞳。似ているのにまるで違う。見ていると自分ができそこないのような気がしてくる。そんな自分の心など、彼は決して知ることはなく、何も解ってはいない無垢な瞳で、今日も微笑みかけてくるのだ。
「おやすみ、リズ」
「……おやすみなさい、お兄様」
 寝る前のそんな挨拶を交わすだけで、こんなにも胸が騒ぐ。ただの家族の営みが、こんなにも苦しくて辛くて、それなのに休めるわけがない。なのに、夜は長い。
 だからつい、リーゼアは騎士宿舎へと向かってしまう。
 自分が所属する親衛の宿舎ではなく、近衛の宿舎へ。縋るような殺意と共に。

 それでも数日振りに、リーゼアは近衛騎士宿舎の扉に手をかけた。夜更けとはいえ、夜勤の騎士もいる。だから、入れ替わりの時間は慎重に避けた。最も人気のない時間を狙って、誰にも会うことなく、標的の部屋へ向かう。
 夜は来るなと何度も忠告されていたが、リーゼアも日中は暇ではないし、明るいうちは人目もある。何憚らず襲撃するには、やはり闇に紛れるのが一番いい。
 いつものように、足音を消して、気配を殺して、抜いた剣を握り締めて、だが目的の部屋から明かりが漏れているのを見て、リーゼアは気抜けした。――寝込みを襲ったところで、どうせ成功したことはないのだが、起きていれば尚成功するはずもない。だが今更諦めて帰る気にもなれず、そっと中を伺ってみる。ベッドとテーブルと椅子がひとつずつあるだけの狭い部屋に、その姿を探すことは極めて容易だ。テーブルの上に、明かりが煌々としており、そこに突っ伏している人物を映している。ただここから見えるのは、その光を弾いて輝く、豊かな長い銀髪だけだが――
(……寝ている?)
 依然気配を消したまま、リーゼアは体を室内へと滑り込ませた。細心の注意を払って、音をたてないように歩み寄る。見覚えのある、飾り気のない白いシャツを着た肩が規則正しく上下しているのが見え、剣を握りなおす。今までで、一番無防備に見えた。だが、その最大のチャンスに、リーゼアは動きを止めた。そうさせたのは、テーブルの上に見えたものと、鼻腔を刺激する不快な匂いだった。結局、そっちに意識が逸れている間に、今まで微動だにしていなかったティルが顔を上げる。仕方なくリーゼアは剣を下ろしたが、表情をめいっぱいに歪めた。
「……貴様、」
 だが、つきかけた悪態は途中で切れた。何が起こったのか解らない内に、強い力に導かれるまま、体が傾ぐ。目の覚めるような白が視界いっぱいを占め、その中に混じる銀と耳元にかかる吐息に、ようやく理解し、体中の血が沸騰したかのように熱くなった。
「は、離せ変態!」
 今まで何度口にしただろうかという台詞を、また叫ぶ。いつの間にか彼は立ち上がっていて、そして強く抱き寄せられていた。あまりに突然のことで抵抗する暇もなく、そして今となってはもがくこともできない。それほど強く力を込められて、咳き込みそうになりながら尚も叫ぶ。もう抵抗できるのは口だけだ。
「離せ! 酒臭い!」
 さきほど途切らせた言葉を投げつける。テーブルの上にあったのは酒の瓶で、鼻をついた匂いも強いアルコールだった。父が呑むので気づいたのだが、それにしても近くにいると尚一層耐え難い匂いだ。相当深酒している。とすると、彼は酔っているのだろうか――と、リーゼアはふと抵抗をやめた。冷静になってみれば、確かにティルはよく押し倒したりしてからかってくるが、こんな風に突然無言でこんなことをしてきたことはない。
 なんだかんだ言って、彼は自分に手を出してはこない。あれだけ忠告してくる割に、いつも忠告だけで終わる。
 それはきっと、結局のところ――自分など彼の眼中にないのだろう。
 導いた答えを確かなものにするように、耳元で彼が囁く。
「――セラ――」
 その瞬間、熱くなっていた体が、一瞬の元に凍るように冷えた。
 何か叫びたかったが声は出なかった。体の中を駆け巡る衝動に任せて、ティルの体を突き飛ばす。一度として思う通りになってくれたことのない彼は、なのに簡単に突き飛ばされてくれて、そのままもんどりうって仰向けに床に倒れる。それに追随して、自由を奪うようにその上に馬乗りになって、頚動脈に抜き身のままだった剣の刃を沿わせた。そう動いたわけでもないのに息が切れて、肩が激しく上下した。
「……殺していいよ」
 落ち着いた声に、我に返る。見下ろすと、虚ろな碧眼に見上げられていた。
「ていうかもー殺して」
 虚ろだが、しっかりとこちらを見据えてくる瞳は正気だった。声もしっかりしている。少なくとも今は、彼は酔ってなどいない。なのに、正気とは思えないようなことを言ってくる。だが、そんなことよりも、リーゼアの頭の中にはティルが口にした名が渦巻いていて、リーゼアの方こそ正気ではなかった。それは、今最も忘れたくて聞きたくない名前だったのに。
「……ごめん、リズちゃん」
 頬に、冷たい手が触れ、リーゼアは体を震わせた。宝石のような青い瞳はやはり輝きはなかったが、先刻ほどは虚ろでもない。しかしそれが酷く霞んで見えるのは、自分が泣いているせいだということを自覚すると、また顔が熱くなった。不快なのにティルの手を振り払う気力もなく、はらはらと涙が舞う。
「泣かないで」
 剣をあてがわれているというのに、無造作にティルが起き上がる。手に伝わった感触にリーゼアは顔をしかめた。乱暴に涙をぬぐうと、心配そうにこちらを覗き込むティルの顔が最初に見えて、そしてその白い首筋に赤い線が走っているのが見えた。
「……血が……」
 それで思わず呟くと、ティルがきょとんとする。そしてそのとき初めて気がついたように、首筋に手を当てた。指先にわずかについた血を見て彼は苦笑した。
「リズちゃん、本当に俺を殺す気ある? こんな傷舐めときゃ治るよ」
「……そんな場所、自分で舐めようがないだろう」
「じゃー舐めて」
「貴様酔ってたんじゃないのか」
 軽口を叩くティルを、リーゼアが呆れたように見る。その視線から目を外して、ティルはどこか自嘲的な声を滲ませた。
「……俺、酔えないんだ。だからまあ、多分素でおかしくなってただけ」
「確かに貴様は素がおかしいが。大体お前未成年では? ランドエバーでは十八歳未満の飲酒は禁止されている」
「俺の国では十五歳以上の飲酒は認められてるし、成人の儀も済ませてる。大目に見てよ」
 言ってしまってから、ティルはしまったという顔をした。その理由は、すぐにリーゼアも察することができた。自分のことは何ひとつ語らなかったこの男が、珍しくそれに関することを口にしたのだ。
「……こっちの大陸では十八成人の国しかない。その髪といい、貴様やっぱりファラステル大陸の出身だな?」
「うーん、痛ててて。傷が痛い」
 わざとらしい声をあげると、リーゼアにジト目で睨まれた。だが構わずティルが軽口を叩き続ける。
「というわけでやっぱ舐めて」
 目を細めて顔を近づける。抵抗されるか罵倒されるものと待ち構えていたが、彼女が取った行動はそのどちらでもなかった。カタン、と音がしてそちらを見る。リーゼアの手を離れて剣が床に倒れていた。それを見るともなしに見ていると、肩にリーゼアの両手がかかった。そして、首筋に吐息と柔らかな感触を感じる。
「――――!?」
「いつもわたしが茶化されたままでいると思ったら大間違いよ」
 あどけない顔に不釣合いな妖艶な笑みを浮かべ、舌を出したままでリーゼアが微笑う。
「リ、リーゼアさん……?」
「いつもと態勢が逆ね。じゃ、今夜はわたしが苛めてあげる」
「な、なんか凄いこと言ってるけど……あのさあもしかして」
 据わった目で詰め寄ってくるリーゼアの両肩を掴んで押しとどめ、ティルは冷静に問いかけた。
「酒の匂いだけで酔ったとか?」
「ひっく」
 絶妙なタイミングで、とてもわかり易い答えが返ってきて、そして次の瞬間、一気にリーゼアから力が抜けた。間をおかず、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきて、ティルもつられて脱力する。
「弱いにも程があるぞ……」
 止め処ない脱力に逆らって、リーゼアの体を押しのけて立ち上がる。そして彼女を抱き上げると、ベッドへ横たえてやった。
「あーあ、散々忠告したのにねー。据え膳食わぬはなんとやらって言うけど、どうしようかな〜」
 その脇に腰かけ、癖のある金髪を撫でながら、ティルはかなり真剣に悩んだ。すると、不意に髪に触れている手にリーゼアの手が重なった。
「……お兄様……」
 幸せそうに笑いながら、リーゼアの唇からそんな言葉が漏れて。
「ソイツと間違われるのは甚だしく不愉快だな……」
 言いつつ、だが自分も同じことをしてしまったのを思い出す。情けない一面を見られてしまったことが酷く悔やまれるが、同じ痛みを持つ彼女ならばいいかもしれないという気もした。
「まあ……とりあえず何もしないでおくか。いい夢見てるみたいだし」
 安らかな寝息を立てるリーゼアを見下ろして、ティルは呟いた。
 指先に伝わるぬくもりは、長く辛い夜を少しだけ優しくしてくれる。それはいつも独りだったティルには新鮮な経験ではあったものの。
「…………」
 窓の外へと視線を移す。見事に丸い月が、こちらを見下ろしている。
 それを見るともなしに見ながら、彼は愛しい人へと想いを馳せていた。