FAKE ROMANCE 5



 夜。皆が眠りに堕ちるその暗く優しい静かな時間。
 だがリーゼアにとっては、その暗さも静かさも、けして優しさにはなりえない。
 動いているときはいい。仕事をしているときもいい。訓練さえ、厳しければ厳しいほどそれでいい。していることに集中できる。それで泥のように眠れればいいのに、どんなに疲労していても、それができない。
 体を休めれば思考が動く。そうすれば、かならず行き場のない理不尽な思いに苛まれる。狂わしいほどの、理不尽な思いに。


「……貴様は、なぜそんなに姫様に拘る」
 思わずリーゼアは問うていた。すると、俯いていたティルが、顔を上げる。さっきと同じ、少し困った笑顔。
「リズちゃんのお兄様にも、同じこと言われたよ」
 どきり、と心臓が跳ねる。
 それは、同じ台詞を口にしたときの、兄の顔と心情を想像してしまったからだった。リーゼアが聞いた理由は単なる疑問だ。興味本位に近いことだが、兄はきっと違う。
「それで、俺は同じことを聞き返してやった」
 ティルが言葉を継いで、リーゼアはティルを凝視した。
「お兄様はなんて……」
 そして、思わず聞いてしまっていた。聞きたくないことだと自覚していたし、兄の天敵である男にそんなことを聞くことも本当は躊躇われた。それでも、それより強い思いに動かされたのだということも同時に自覚し、苦しくなる。
 しかしティルは答えなかった。
「リズちゃんにはこう言えばいいのかな。――なんでリズちゃんは、そんなにお兄様に拘るの」
 くす、とティルが意地悪く笑い、リーゼアはかっと顔が熱くなった。それは、僅かな羞恥と、圧倒的な怒りで、怒りに任せてリーゼアは叫んだ。
「お兄様は……! 多忙な両親に代わって私を育ててくれた。いつも優しかった。何よりただ一人の兄弟だ……! 尊敬し、大事に思うことの何がおかしい」
 怒っているのに、精一杯睨んでいるのに、だがティルは笑うのをやめなかった。それどころか、余計にくすくすと、声をあげて面白そうに笑うのが癪に障って仕方なく、リーゼアはその笑顔に向けて剣を突き出した。
「何が、可笑しい!」
 先ほどの語尾を反芻して、剣を握る手に力を込める。だが、その切っ先を向けられても、ティルは少しも動じない。
「……ボーヤがなんて答えたか、教えようか?」
 カチャ、と剣が鳴った。見た目にも明らかに、リーゼアの手が震えている。なのに、彼女はそれに気づいていないようで、泣きそうな顔になっていることにも気づいていないようで――だからティルも気づかないフリをしてやる。
「臣下だからだって。臣下が主君を心配することの何がおかしい――って」
「……嘘だ。お兄様は……」
「嘘をついているのはリズちゃんも同じだ」
 知らず零した言葉に言葉を返されて、リズははっとした。慌てて、剣を構えなおし、ティルを睨む。だが、やはり効果などない。その切っ先に手をかけて、ティルはリーゼアを見下ろした。
「ほんとにそっくりな兄妹だな。臣下だから。兄妹だから。都合のいい言葉で隠せて、便利だよね」
「…………」
 見上げてくるリーゼアの瞳は鋭いが、涙が溜まって、睨むことに成功していない。
「責めてるんじゃないよ。だけど、俺にはそういう都合いい言葉はないから。……俺はセラが好きだ。彼女がいないと生きていけない。だからここにいる。リズちゃんに命を狙われようが、ボーヤに小言を言われようがね」
「なんで……」
「理由が必要?」
 そう言われると、言葉を返すことはできなくなった。黙って、リーゼアが剣をおろす。
「……お兄様が、貴様を嫌いな理由が解った」
「俺がリズちゃんのお兄様を嫌いなのも同じ理由さ。ただそれだけで、俺はライゼスという人物は別に嫌いじゃないんだぜ。それがなきゃ、友達になれたかもな……」
 改めて、リーゼアはティルを見上げた。青い瞳はどこまでも澄んでいるのに、全く輝きなく翳っている。
 最初に、ティルの存在を気に留めたのは、兄がよく口論をしているからだった。それから、暇があれば、行動を観察するようになったが、いい加減で軽薄で無礼で立場もわきまえないような無法者で、普段優しく温厚な兄でさえ怒らせる人物だと知って、兄の為に排除することに決めた。――だが、その彼と、今目の前で、限りなく哀しい瞳をする人物は、果たして同じなのだろうか。
 いつも気に障る笑みを浮かべていると思っていたが、冷静になって見てみれば、こんなものを笑顔とは呼べない。
「……貴様は私を蔑まないのか」
「何故?」
「血が繋がった兄妹だぞ」
「だから?」
 彼は、自分の兄への気持ちを確実に看破していた。なのに、それを嗤うことも否定することもしない。それが気になって問いかければ、あっさりとそう返される。リーゼア自身が苛立つほどに、あっさりと。
「だからって……。貴様、変な奴だな」
「散々変態変態言っといて、今更?」
 ふ、とティルが笑う。笑顔と呼べない哀しい笑みで。なぜかそのことに胸が締め付けられる。きっと、彼も自分と同じ苦しみを知っているのだと気づいたから。
 彼が狂おしいほど想う相手は、自分が狂おしい想いを寄せる相手を見ている。彼を自分におきかえても、また同じことが言えた。そしてそれが、想いを理不尽なものに変えてしまう。だけど、忘れることも諦めることもできない。
 それを知ると、急にこの人物に対して興味が沸いた。もともと、謎が多すぎる人物だ。そもそも第九部隊にいることが既にただごとではない。第九部隊は、ある意味触れてはいけない部隊だから、誰も触れないが。
「……貴様は何者なんだ? 何故、第九部隊にいる? さっきこういうことに慣れているって――」
 問いかけると、唇に白く長い指が触れた。
「ちょっと喋りすぎた。……今日はもうオヤスミ」
 強制的に会話を終わらせられ、不満げにリーゼアがその手を払いのける。
「私に触れていいのはお兄様だけだ」
「そう。ごめんね」
 素直に詫びると、ティルは彼女に背を向けた。それから少しの逡巡の後に、こう付け足す。
「……辛いならまた狙ってもいいよ。それで気が紛れるのならね」
「貴様に借りを作るなど御免だ」
「じゃあ理由を作ってあげる」
 振り返ると、ティルは悪戯を思いついた子供のような顔をした。そして、先ほどつけた灯りを吹き消す。
「……?」
 周囲が闇に沈み、彼の意図をはかりかねてリーゼアは戸惑った。だが両頬に冷ややかな感触があって心臓が跳ね上がる。信じられないほど近くに――顔に吐息がかかるほど近くに――気配を感じたときには、唇が触れていた。
 咄嗟に突き飛ばしたときにはもう、離れていたくらいのごく一瞬のことだが。
「き、ききき貴様ッ!! いいい今……ッ」
 口元を押さえて、リーゼアが悲鳴にも似た声で叫ぶ。
「意外と可愛いね。こんなのキスのうちにも入らないでしょ」
 怒りのためだろう、震えて声も出ないリーゼアの様子に、ティルは全く反省してない声を上げた。闇で覚束ない足元の中、リーゼアが再び剣を振り上げる。それを見てティルが笑う。
「殺す! 貴様は絶対殺す!!」
「そうそう。思う存分殺しにおいで」
 リーゼアがめちゃくちゃに剣を振り回すのを、ティルはポケットに手を突っ込んだまま身をかわして逃げ回る。そうしていれば、静かな夜は少しだけ遠ざかる。

 それが二人にとっては、ほんの少しの優しさに変わる――。