FAKE ROMANCE 4



 暗く静かな、夜という揺り篭に揺られ、人々は眠りに沈む。それは、自我や思考を離れて生きていく煩わしさから離れられる安寧のひとときだ。――大部分の人にとっては、眠りとはそういうものであろう。
 だが、"彼"には違う。安らぎは油断と同意義であり、油断は死を招く。ならば眠りの安寧は、そのまま死への道標にも等しかった。それを、どう愉しめばいいというのだろう。
 しかし、人であるならば、眠らずには生きていけない。自分の体を維持するために最低限の眠りを確保することと、長い夜を絶望に蝕まれずに越えるのが毎日を生きる課題で、彼にとって眠りとはそういうものだ。だがその最低限の眠りさえも、妨げられることは少なくない。だから、いつでも、たとえ眠っているときでも、意識の奥の方は覚醒したままでなければいけない――

「…………」

 それで、彼は目が醒めた。
 今はもう必要ないというのに、頭も体も、なかなかその感覚を忘れてはくれない。刀を抱き寄せて、彼は待った。暗闇にたゆたう冷たい意識が、自分に突き刺さるのを待った。そしてそれを感じて――顔がほころぶ。
 仮にこれが殺気というなら、ずいぶん可愛らしい殺気と言わねばなるまい。確かにそこに殺意が介在しているというのに、それがこんなにも恐ろしくないことが可笑しくもある。しかし事実だ。それは、今まで向き合ってきた殺意が、いかに昏く冷たく、どす黒く醜かったかを鮮明にしてくれる。嬉しくも有難くもなんともない――
 そして彼は刀を離した。必要としないことが解った。呼吸を整えて、短いカウントダウンとともに、勢いよくシーツを跳ね上げる。

「……ッ!!」

 声こそあげなかったが、相手が驚愕に息を呑んだのは空気が伝えた。窓を通した月明かりが、白銀の輝きを弾く。それは自分を貫くはずだった凶器で、だがそれはもう成せない。成せないのになお、目的を達成するためこちらへ牙を向けるその剣と、剣に伝わる意思を――ティルは片手で押しとどめていた。
「何回目? よく飽きないね」
「何故解った……? 起きていたのか?」
 その高い声を聞かなくても、掴んだ手首の細さを意識しなくても、襲撃者が女性であることは既に知っていた。というのも、襲われたのが初めてではないどころか、今日だけでも既に両手では数えられない。
「寝てたよ。なに、もしかして夜這いなの?」
 軽口を叩くと、少女が髪の毛を逆立てたのが解った。彼女の体が月を隠していなければ、きっと彼女が凄い形相をしているのも見えただろう。見えずとも想像できるので、見る必要もなかったが。
「け、汚らわしいことを言うな変態! 離せ!」
 少女が、手を振り払おうともがく。だが、依然として剣から殺気が消えてないのに、離してやるお人よしはなかなかいないだろう。
「先にリズちゃんが剣を離してよ」
「断る! 気安く呼ぶな!」
「じゃー俺も離してあげないよ。リーゼア」
 最初の要求は切って、もうひとつの要求は呑んでやる。しかし、それで満足する筈もないことは解っている。どうにか自由を取り替えそうと、掴まれていない方の手を剣から話す。だがそれを見逃すティルではない。そちらの手も掴むと、そのまま彼女の体を自分の隣に押し倒した。
「な……何をッ!!」
 位置が変わり、月明かりで彼女の表情がよく見えるようになる。怒りと嫌悪と蔑みと、そういう方面の感情が全部混ざったなんとも言えない表情は、苛めたくなる衝動をかきたてた。
「夜更けに男の寝室に侵入したんだから、何されても文句言えないよね」
「け、ケダモノ!!」
「悪いが男はみんな獣だ。……なんでもお兄様を基準にするなよ? あいつは希少種だ」
「お兄様を馬鹿にするな!!」
 ひときわ鋭い言葉と共に、表情もまた剣呑さを増す。自分が辱められるよりも、兄を侮辱されることの方がこの少女にとっては耐え難いことらしい。そのことにティルは苦笑した。
「別に馬鹿にはしてないよ」
「貴様がお兄様を語ること自体が馬鹿にしている! ……くそっ離せっ、やはり息の根を止めてやる!」
「そんなこと言える状況?」
 もがくことすら許さないほど力を強めて、表情から笑みを消す。そこで、ようやくリーゼアの表情に恐怖が浮かんだ。
 笑みが消えた美貌は別人のように冷たく、青い瞳は凍るように寒く、長い銀髪は、暗闇でも眩く、絶世の美女と呼ぶに相応しい容貌。なのに露わになった上半身は、性別と年相応に骨ばっていて逞しく、男だと認めざるを得ないものだ。
「……というか貴様……何故服を着ていないんだ! 変態!」
「どんなカッコで寝ようが個人の自由だと思うけど……なら宿舎に寝間着を備え付けてくれよ。俺もそろそろ寒いんだ」
 表情から恐怖は消えていないが、それでもリーゼアは吼える。元来勝気なのだろう。そういう気の強い女は、割と好むところではある。ただひとつ、天敵の妹であるというのが残念過ぎるが。
「それくらい自分で買え!」
「あんまり外出たくないんだ。まあいいじゃない、どうせ脱ぐんだから」
「変態! ケダモノ!!」
 あらん限りの罵倒をうけるが、聞き流す。
「さて、どこから食べて欲しい?」
 舌なめずりして言うと、小さい悲鳴を上げてリーゼアが黙った。そろそろ意地を張るのも限界なのだろう。顔を近づけると、泣きそうな顔で、彼女は固く両目を閉じた――

「……なんちゃって。君ら兄妹ってからかうと面白いよね」

 唐突に自由が返ってきて、リーゼアは目を開けた。その頃には、もう目の前に、あの凍るような碧眼はない。無造作にシーツを剥がして起き上がるティルに思わず悲鳴を上げそうになったが、彼はちゃんと下は履いていた。それでやっと、茶化されたことに気づき――どうしようもない怒りが、一気につま先から頭まで駆け上る。
「貴様…………ッ!」
 衝動に任せて、剣を握りなおす。ベッドを降り、ランプに灯りを入れるティルの後姿めがけて剣を突き出すが、返ってくるのは手ごたえではなく、硬い音と反動だった。
「諦めなよ。リズちゃんに俺は殺れない」
 いつの間にか手にした刀で、ティルは後ろを向いたまま片手でリーゼアの剣を受けていた。この明らかな実力差は、最初の襲撃から理解してはいる。だが自覚するのが酷く悔しく、リーゼアの目には涙が盛り上がった。
「……ちょ、泣かないでよ。別にリズちゃんが弱いとは言ってない」
 上着を羽織りながら振り向いてみれば、リーゼアの頬に光るものが見えてティルは焦った。誰であれ理由がなんであれ、女の涙には無条件に弱いのである。
「泣いてない!」
「見ればわかる嘘ついてどうするの。……俺を殺せないって言ったのは、なんていうか、こういうの慣れてるから、今更殺られる気がしないだけというか……」
「だから泣いてない!」
 慌てて手の甲で頬を拭いながら、リズが説得力のまるでない言葉を叫ぶ。そんなリーゼアを、ティルは困ったように見つめた。暖かな光が、リーゼアの赤茶けた金髪と、涙が滲んだ桃色の瞳を映し出す。
「あのさあ、なんでそんなに俺を殺したいの?」
 そのリーゼアの瞳を覗き込むようにして尋ねる。ティルもあまり背が高い方ではないが、それでも屈まねば視線が合わないほどリーゼアは小柄だ。
「……お兄様が貴様を嫌ってるからだ」
「ボーヤが俺を殺してほしいとでも?」
「違う、お兄様はそんなこと言わない! そもそもお兄様は人を嫌ったりする人じゃない! そんなお兄様が嫌うのだから、貴様が悪い! よってお兄様の為に貴様は排除する!」
 極めて単純明確な理論を、睨みとともに突きつけられる。言っていることはかなり無茶苦茶なのだが、目はこの上なく真剣で、本気だということを語っていた。
「……どうしても俺を消さないと気が済まないってわけだ」
「嫌なら姫様に近づくな。そしてこの国から出て行け」
 端的に述べられた言葉に、ティルは一瞬表情を消した。無表情に見られて、リズがびくりとする。いつもふざけているからかもしれないが、ティルから表情が消えると、恐ろしいほどに印象が冷たくなるのだ。だが、すぐにティルはいつもの笑みを戻し、だが視線は床に投げたまま、抑揚のない声を返してきた。
「それなら死ぬのと変わんないな。セラちゃんがいない場所で、生きてても仕方ないから」
 俯いたティルの表情は見えない。だが、冗談を言っているようには聞こえず、リーゼアは戸惑った。