終焉者は謳う 5



「ねえ、もう意地を張るのはやめようよ」
 クラストの姿はもう消えたが、声は消えずにまとわりついてくる。
「キミは自分が強くあることで大事なものを守ろうとしてた。でも結局ライゼスもティルフィアも、キミがいることによって傷ついているじゃないか」
 涙を拭いたいのに手が動かない。違うと叫びたいのに、声が出ない。
「自分がいくら努力したって、周囲も環境も変えられはしない。もがけばその分、苦しくなるだけ」
 赤い空はゆっくりと消えていった。だが、まだ動くことはできなかった。剣を手にして戦うライゼスの姿は、瞼に鮮烈に焼き付いて離れない。言葉を紡ごうとするたびに、その姿が――、伯爵の声が、彼の手にかかった憐れな女達の断末魔が、ノルザの村人の懺悔が、リュナの憂いを帯びた隻眼が、野盗達の雄叫びが、ティルの哀しげな笑顔が、行き過ぎてはそれを止める。
「……世界は本当に美しかったかい?」
 それらが混ざり合っては胸を苛む。
 世界にはどうしようもない哀しみが満ちている。理不尽なことで溢れている。それはもう疑いようもなかった。だけど。
(だけど、それだけじゃない筈です――お姉様)
 ふいに降ってきた優しい声に、セラは顔を上げた。そこにはクラストもいなかったし、声の主もいなかった。その代わりに、行き過ぎていった記憶が少しずつ逆戻りしていく。
(憎み争い合うからこそ、愛が美しいのだと私は思う)
 そう伯爵が言って、フィアラが笑った。その光景が光の中に蘇り、そして消える。
(パパとママが、あたしが小さい頃からずっと言っていたんです。大きくなったら旅をしなさいって。美しい世界と、温かい人と、直に触れあいなさいって)
 幸せそうに笑うリュナは、両親の言葉を信じて疑わなかった。彼女の姿もまた消える。
(姫〜、ただいまも言わないうちにそれですか?)
 呆れたように言っていても、ヒューバートの目は優しい。その隣にいる父も、母も、いつも大きな優しさで包んでくれた。
(……先生達やリュナちゃん、そのうちいなくなってしまうんですか……)
 別れを惜しんで、レリアは涙を流してくれた。
(ティアのこと、宜しく頼むよ。君なら安心して任せられる)
 ほっとしたようなエラルドの笑顔が嬉しかった。
(ありがとう。セラ)
 ただ一度だけ、ティルは泣いた。泣いていたのに、その表情が一番幸せそうだった。他のどんな笑顔より。
(僕はセラの道を守り、拓く。それが貴方にさえ譲れない、僕の信念です)
 そして最後に暖かなまなざしが、限りない力をくれる。いつだってどんなときだって、そうしてくれたように。
 決して、哀しいことばかりではなかった。当たり前のことをどうして忘れていたのだろうと思う。泣くから涙を拭って笑え、弱いから支え合えるのだ。
「そうです、セラ。いつも正しく優しいものなどない。例え世界がどれだけ間違っていても、だからといってクラストが正しいわけじゃない」
 ふとぬくもりを感じて、セラは顔を上げた。そこには見慣れた笑顔があって、優しく手を包んでいた。
「すべてが解決する答えなどありません。でも、貴方の中にある答えを失くさないで下さい」
 その姿はすぐに消えたが、ぬくもりは消えなかった。例え消えても、二度と忘れはしないだろう。セラは手を上げると、涙を拭った。

「……ッ」
 唐突に手を振り払われ、クラストは舌打ちした。彼を包んでいた青い光がそれと同時に掻き消える。こちらを睨みつける真っ直ぐなアイスグリーンの瞳から目を背け、クラストは珍しく苛立ちをストレートに表情に乗せた。
「やってくれるじゃないか、リュナーベル。それに、番犬……ようやく引き離したのにそれでもまだボクの邪魔をするッ」
 苛立たしげに吐き捨て、クラストは立ち上がった。だが体がふらつき、壁に手をついて体を支える。さすがに力を使い過ぎた。そうまでしても、確実にセラを落とすつもりだったのにと、また苛立ちが増す。
「――ティルフィア!」
 クラストはセラに構わず、彼女から離れると苛立ちのままに呼んだ。音もなく室内に現れた彼を見て、ようやくそこで表情に笑みを戻す。
「……番犬を殺しておいで。近くにいる筈だ」
「やめろクラスト!」
 叫びながら、セラが跳ね起きる。目眩がして軽い吐き気が襲ったが、構っている暇はなかった。だがベッドを降りようとすると、クラストに強く腕を掴まれた。
「離せ! もう貴様の言いなりにはならん!」
「――勘違いするな、セリエラ」
 動きを止められて激昂するセラを見下ろし、クラストが氷点下の声を落とす。
「お前はボクのものだ。この下らない世界をボクがこの手にするための駒だ。それを拒否することなどお前にはできない」
 薄く笑うクラストの笑顔は、いつものそれではない。おぞましく凍るような笑みに、だがセラももう恐怖を感じることはなかった。
「それが貴様の本音かクラスト。貴様はこの世界を憂いてなどいない。ただ全てを自分の都合の良いように動かしたいだけだ」
 吐き捨てると、ぎり、と腕を掴む手に力が籠った。骨が悲鳴をあげそうなほどの力だったが、セラは苦痛を顔には出さず、ただクラストを睨みつけた。対するクラストは、さっきからの薄ら笑いでそれを受け流す。
「ああ、そうだよ。だけどボクはボクなりに憂いている。この世界は下らない。権力を笠に威張り散らす者も、与えられるだけで何も掴もうとしない愚民も。力を持つ者も持たない者も屑だ。こんな世界ボクには相応しくない」
「貴様の勝手な理屈を押しつけられては迷惑だ!」
「キミだって理想を唱える。その理想は、誰かにとっては迷惑なものでしかないのと同じだ。それでもキミは信念を貫く。それと同じことなんだよ――セリエラ。ボクはこの虚ろなる世界をボクの理想に染めたいだけだ」
「ならば私は私の信念の元にそれを止めるまでだ。だがな、クラスト。そんなものは私と貴様の間で問答しても仕方のないことだ。この世界から見れば私もお前も、その中にいるほんの小さな――儚く弱い人間の一人に過ぎない。こんなものは、それこそ下らない茶番劇だ」
 力尽くでクラストの手を振り払い、セラは剣に手をかけた。だがクラストの笑みも余裕も消えることはなく、依然として高圧的な態度でこちらを見下ろしてくる。
「吠えるねセリエラ。自分の立場を忘れているんじゃないか? ……ティルフィアはもう番犬を始末しに出かけたよ?」
 その言葉にはっとして、セラはクラストに注意を払ったまま、視線を動かした。今までそこにいたティルの姿が消えていて、セラの中を焦燥が駆け抜ける。
「大事なものを失っても、同じように毅然と立っていられるかい?」