隻眼の少女 5



 ツインテールをほどいた頭を拭きながら、リュナは早足にセラが眠る部屋へ急いでいた。髪が濡れているのは雨に打たれたせいではなく、そのせいでべたつく髪を洗ったからである。
 セラは依然として眠ったまま、一晩が過ぎていた。それでもだいぶ顔色は良くなったので、リュナも仮眠を取ろうかと考えていたのだが、朝早くにライゼスが交代を申し出に部屋を訪れると、睡眠より体を流したくなったのである。
 レインコートは着ていたが、ティルに刀を向けられたときに転んだし、服も髪もあちこち湿っていた。正直なところリュナも早く着替えたかったが、ライゼスもティルも憔悴していたし、自分のせいでこうなったことを考えると言い出せなかったのである。なのでライゼスの気遣いは心底有難く、それに甘えることにしたのだった。
 とはいえ、あまりゆっくりしていてはライゼスに悪い。自分が元凶である以上、これ以上彼らの手は煩わせたくない。ライゼスは気にしなくて良いと言ってくれたし、セラの具合にしてもそう悪くなく、休めば元以上に良くなるだろう。だがそれでもリュナは責任を感じていた。気を使ってくれるライゼスや、刀を突き付けてきたティルの態度が、一層それに拍車をかけた。無意識に小走りになりながら、廊下の角を曲がる。
「――きゃ!」
 突然の衝撃に、リュナは小さな悲鳴を上げた。そして、すぐに誰かにぶつかったのだと理解する。急がなければとそればかりで、前を見たような覚えがない。
「大丈夫?」
 降ってきた声に顔を上げると、雲ひとつない空をそのまま映したような碧眼と目があう。明るい色なのにどこか寂しい瞳だが、少なくともさっきまでのような敵意は消えていた。
「ティルさん」
「ティルでいーよ。……昨日はごめんね。いきなり斬りつけたりして」
「いいんです。仕方ないですよ」
 まるで気にしてないとでも言わんばかりのリュナに、ティルが呆れた声を上げる。
「仕方ないって……、殺されかけといて、よくそんなこと言えるね」
「セラさんが大事だからでしょ? 誰かをそこまで想える人は、悪い人じゃないわ」
 リュナがそう断言すると、ティルはふと視線を落として笑った。
「……それは、買い被りだよ」
 自嘲じみたその笑みに、突然、弾かれたようにリュナが眼帯を押さえた。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない。気にしないで」
 リュナは微笑んだが、取り繕ったのは明らかだった。本人もその自覚はあるのだろう。ティルが眉を顰めるのを見て、リュナは少しためらったが口を開いた。
「……貴方は、ずいぶん寒い心をしてるのね」
 ふいに零れたリュナの言葉は、酷く憂いを帯びていた。会ってからそう時間が経っていない中でも、リュナの大人びた一面はたびたび顔を覗かせている。だがその中でも一段と際立って、蒼い瞳は深く、優しく、悲しかった。 「今にも崩れそうなのに、貴方はあたしの魔法には巻き込まれなかった。……よほど強い何かが、貴方を支えてるのね」
「…………」
 何も言えず、ティルはただリュナの言葉を聞いていた。とぼけることも誤魔化すこともしようと思えばできた。だがこの少女の前では無意味な気がした。
「でも、その想いは諸刃だわ」
「――解ってるよ。忠告どーも」
 リュナの表情には真剣に心配する色が見えたが、ティルは苦笑した。
「忠告だなんて、そんなつもりじゃ――」
「それも解ってる。それから、精神魔法士に偏見持ってたのも謝るよ。考えてみりゃ人の心に鋭すぎるのも辛いよな、きっと」
「……貴方やっぱり、優しい人ね」
 ようやくリュナの顔に笑みが戻る。今度は取り繕ったものではなく、憂いもない、歳相応にあどけない笑みだった。だが「あ」と声を上げて、すぐにまた笑みを消す。
「いけない。早くセラさんのとこに戻らないと」
「俺も行く」
 その場を立ち去りかけたリュナの後をティルが追い、そのまま二人は連れ立ってセラの眠る部屋へと向かった。

 リュナの小さな手が扉を叩く。すぐに返事があり、リュナは扉を開けた。
「ライゼスさん、ありがとうございます」
 ちょこんとリュナが頭を下げ、ライゼスもそれに会釈を返す。だがその後にティルが入ってくるのを見て、渋面になった。
「ごあいさつだな。そんな嫌そうな顔するなよ」
「貴方が僕に友好的な顔をしたことありますか? 自分のことを棚に上げないで下さい」
「ボーヤが言うことはいちいち正論だからムカつくよ」
 刺々しい会話が交わされ、そして睨み合いが始まる。それを見て、リュナは大きな溜息をついた。わざと聞こえるようにしたのだろう。はあぁ、と呆れた声も一緒に出ている。
「お二人は、いつもそうなんですか? そりゃセラさんも疲れるわけですよ」
 年下の少女に呆れられ、それもあまりに正論で、ライゼスとティルが気まずさに口を噤む。
「もう少し仲良くできないんですか?」
「無理だ」
「無理です」
 思わず零した言葉にノータイムで同じ答を返されて、リュナはもう一度深々と溜息をつき――今度はわざとではなく、こらえきれなかったのだろう――、目を伏せた。だが諦めず、目を開けるとキッと二人を睨みつける。
「じゃあ、仲良くしろとは言いませんから。セラさんの前で喧嘩するのはやめましょうよ。二人とも、セラさんのことは大事でしょう?」
 頷きこそしなかったが、今度は二人ともできないとは言わなかった。リュナの方が満足げに頷いて、睨んでいた目を和ませる。
「二人はあれですか。セラさんをめぐって三角関係ってやつなんですか?」
 だが突然にそんなことを言い出して――ライゼスは盛大にバランスを崩してコケかけた。
「概ねそうだ」
「全然違いますッ!!」
 対照的に全く顔色一つ変えずにティルが肯定し、ライゼスが突っ込む。
「違うなら俺の邪魔するなよ」
「ふざけないでください! やっぱり貴方は黙ってた方がいいです!」
 やっぱりってなんだよ、と腑に落ちない顔をするティルと、不思議そうにこちらを見るリュナと、どちらとも目を合わせる気にならず、くるりと二人に背を向ける。
「こ、今回の件と帰りが遅れることを書簡で報告してきます!」
 逃げるように場を後にするライゼスだった。