心の行方 1



 暗い闇から目覚めると、視界は一気に深紅へと塗り替えられた。赤い赤い空。燃えているのかと思うほどの見事な赤だが、落ち着いて見上げれば、黄昏の赤だった。
 混濁する記憶を整理するため、再度ぎゅっと目を閉じる。
 そして再び開いた双眸に飛び込んできたのは、またしても深紅だった。だがそれは、炎の赤でも黄昏の赤でもない。その赤を追う。追った先で、言葉を失う。音が消える。
 剣を振りかぶっているのは父。その先にいるのは――

「ラス!!!」

 声の限りに叫ぶと、無音の世界は消えた。視界を埋め尽くす赤も消える。ひどく乱れた呼吸を整え、顔を上げる。
 次に視界に入ったのは、驚いてこちらを見つめかえす、澄んだ青色の瞳だった。
「……俺じゃ駄目だった?」
 少し寂し気に問われ、自分が何を叫んだのかを思い出して、セラは少し赤面した。
「ティル――」
 もう一度大きく息を吐き、セラは目の前にいる人物の名を呼んだ。そして、彼の手を強く掴んでいたことに気付いて慌てて離す。
「あ……すまない。私――」
 詫びながら、周囲を見回す。見覚えのない部屋。いつ、どうやってここに来たのかはまるで記憶になかった。さほど広くもない部屋をもう一度見渡してみるが、いるのはティルだけだ。そして最後に、見覚えのない服にも気付く。
「……? こ、これ誰が」
 狼狽しながら聞くと、途端にティルの表情から寂しさは消えた。いつものどこか意地の悪い笑みを浮かべて、距離を詰めてくる。
「俺――だったらどうする?」
「……ッ」
「なんちゃって。冗談だよ、俺じゃない」
 からかわれたことに気づき、セラはさっきよりもさらに顔を赤くした。ティルの視線から逃れるように目を逸らし、怒気をはらんだ声を投げる。
「か、からかうのはやめろ! 大体ティルはいつも――、この前だって――」
 だが言いたいことはまるでまとまらず、意味を成さない言葉になって零れていく。ようやく「この前」という単語を絞り出すと、余計に顔が熱くなった。
「ごめん」
 不意に返ってきた謝辞に、セラは言葉を止めた。
「この前はごめん。もうしない。約束するから――避けないでくれる?」
 笑ってもふざけてもいない真剣な声に、顔の熱が引いていく。彼に目を戻すと、その表情からも笑みは消えていた。さっきと同じ寂しそうな瞳を向けられて、咄嗟に頷いてしまう。
「良かった。もう話してもらえないかと思った」
 安堵したようにティルが微笑み、それを見てセラもほっと表情を和ませた。ようやく気まずい空気がなくなり、セラは気になっていたことを聞いてみた。
「ラスは?」
「つい今までいたよ。セラちゃんの看病してくれてた子も一緒に。ボーヤは、城に状況を報告する書面を出しにいって、その子は水を貰いにいっただけだから、どっちもすぐに帰ってくるとは思うけど――呼んでくるよ」
「え?」
 そう答えて立ち上がったティルを見、セラは思わず驚いたような声を上げてしまった。違和感があったのだが、ティルに不思議そうに見られて「なんでもない」と答える。その上で、首を横に振った。
「――いいよ。会ったら喧嘩になりそうだし」
「なんで?」
「体調悪いの黙ってたこと、ここぞとばかりに怒るに決まってる。……まさか倒れるほどとは思わなかったんだ」
 渋面で答えたセラに、ティルは「ああ」と声を上げると彼女の勘違いを訂正した。
「セラちゃんが倒れたのは熱のせいじゃないよ。後でちゃんと説明するけど……」
「そうなのか? でも熱はあったんだろ。どっちみち怒るよ、ラスは。そういう奴だ」
 吐き捨てるように言うセラに、ティルは少し複雑そうな顔をした。そして何か言おうとしたのか口を開きかけ、だが何も言葉を紡がないまま閉じる。そしてくるりと背を向けた。
「……ティル?」
 呼ぶと、背を向けたままで彼は問いかけてきた。
「……ボーヤと、なんかあったの? 最近ぎくしゃくしてるみたいだけど」
「別に……何かあったってわけじゃないが……」
 曖昧なセラの言葉は続きそうな響きの割になかなか続かず、沈黙が訪れる。それをティルの溜息が割った。再びセラの方に向き直り、椅子に腰を下ろす。
「話したら、すっきりするかもよ?」
 ティルに笑いかけられて、セラも少し微笑んだ。
「うん……でも、自分でもよくわからない。ただ……ラスとは小さい頃から一緒にいるけど、姫扱いされるのが昔から好きじゃないんだ」
「…………」
 咄嗟に何も言えず、ティルは視線を落とした。
(……なんだ。それも結局俺のせいか……)
 セラが姫扱いされるのを嫌っているのは知っている。そして、ライゼスがそれに沿おうとする一方で、臣下としての分を忘れまいとしていることも見ていればわかる。前の任務中、ティルはそのライゼスの真面目さにつけこんで、二人の仲を割ろうとしたことがあった。実際それは成功したと言えるのだろうが、どうしてか喜ぶような気になれない。
「守られなくても自分の力でなんとかできる自信があった。なのに前の任務ではラスを危機に晒してしまった。それに、私は一人じゃ何もできなかった……。私はラスがいなきゃ駄目なんだ。なのにこれからもこんなことがあって、自分を顧みないようなことをされて、もし何かあったらと思うと……どうしていいかわからなくて……」
 無意識に、セラはシーツを握りしめていた。それに気が付いて、はっとして手を緩める。
「すまない、愚痴になってしまった。ティルは私のこと王女扱いしないから話し安くて」
 こんな、弱音のようなことを人に零したのは初めてだった。気恥ずかしさを隠すように笑みを戻して、セラはティルを見上げた。だが、視線が合わず、首を傾げる。
「ティル?」
「あ……うん」
 強張って見えた彼の表情は、だが見間違いかと思うほどすぐに溶けた。
「俺だって一応王族だけど、セラちゃんもそういう扱いしないでしょ」
「だって、ティルがするなって言うから」
「そ、俺らはお互い様なとこがある。でもボーヤは違う。ボーヤにはボーヤの立場があるんだよ。けどそれを抜きにしても、セラちゃんだって、近くで誰かが危険になったら助けるでしょ? それとこれとは話が別。ややこしく考えすぎだよ」
 セラの愚痴をひとつひとつ、ティルは順序だてて解いていく。その度に、セラは頭のモヤが少しずつ晴れていくような気がしていた。
「そうか――そうかもしれない。ティルに聞いてもらえて良かった。少し気が楽になったよ」
「そう。じゃあ俺、二人を呼んでくるよ」
「う、うん……?」
 部屋を出て行くティルに、セラはまた不思議そうに返事をしたが、今度は彼は足を止めなかった。