隻眼の少女 4



 がちゃりと中から鍵の閉まる音がする。その為宿の主人に礼を言って見送ると、とくにライゼス達がすることはなくなってしまった。扉を背にしてぼんやりと立ち尽くしていると、先ほどの少女の剣幕が頭によみがえってくる。
「精神魔法……」
 その中のひとつの単語を拾って、ライゼスはそれを反復した。
「セラが僕たちより精神的にも疲労していたなんて――そんなこと、気づけなかった。これじゃ本当に、僕は何のために傍にいるんだ」
 自嘲的に独白してしまい、はっとする。ティルの前で弱音に近いことを漏らしてしまったことに気付き、自分もかなり動揺していたことを自覚する。だが意外にもティルは、それを茶化しも嗤いもしなかった。
「……俺もだ。まさかセラちゃんの方が疲弊してるなんて、俺も思ってなかった」
 むしろ同調するようなティルの声にも多分に自嘲が含まれていて、ライゼスは目を丸くした。彼とまともに会話が成立したのは、もしかしたら初めてかもしれない。驚きながら彼を見ると、輝きのない碧眼は、どこか遠くの虚空に彷徨っている。
「彼女が折れることなんてないって、どこかで思ってた……。そんな筈ないのに」
「…………」
 普段の彼なら絶対に言わない弱音をライゼスが茶化さなかったのは、先ほどの礼などではなく――自分もきっと同じように思っていたと気付いたからだ。
 任務で外に出るようになったからか――或いは、ティルという存在が増えたからか。日常の変化に伴って、築いてきたものは簡単に崩れてしまった。これから状況はもっと変わっていく。セラの負担はもっと増える。自分がセラとどう向き合っていくのか、考え直さなければならない時期に来ているのだろう。
 そして、それには隣の人物も無視できない存在になってきているのかもしれない。ちらりと窺い見ると、彼は濡れた髪を鬱陶しそうに広げて乾かしていた。
「……鬱陶しいなら切ればいいじゃないですか」
 あまりに厭そうな表情に、思わず突っ込んでしまう。ティルは、生まれてからずっと女として育てられていた過去を持つ。髪を伸ばしていたのはその為だろうから、もう必要はないだろう。しかし、彼は首を横に振った。
「切らない。鬱陶しいし邪魔だけど、セラちゃんが綺麗って言うから」
 子供のような言い様に、ライゼスは呆れた顔をした。だが、やはりこれだけは認めなければいけなかった。
「貴方は、本気でセラを好きなんですね」
 ため息と共に吐き出されたライゼスの言葉に、ティルが怪訝そうに答える。
「最初から言ってるだろ」
「どこまで本気なのか解らないんですよ、貴方の場合」
 扉が開き、蒼い瞳が覗いたのは、丁度そんな時だった。着替えが終わったようだ。

「さっきはごめんなさい。悪いのはあたしなのに、怒鳴ったりして」  着替えが済んで、泥だらけだった顔も綺麗に拭かれたセラをベッドへ運び終えると、少女はすまなそうにそう切り出してきた。
「いえ、さっきのは僕らが悪かったですよ。気にしないで下さい」
 穏やかな寝息を立てて眠るセラを見下ろし、ライゼスが答える。今は気持ちよさそうに眠っているが、いつもより少し顔色の悪い彼女には、確かに疲労が見えた。
「――あたし、リュナって言います。お兄さんたちは?」
 名乗りをあげた少女――リュナに、まだ互いの名さえ知らなかったことに今頃気づく。
「僕はライゼス。寝ているのはセラです」
 さすがに本名を名乗るのは憚られたので簡単に名乗ったのだが、彼女はそのことには何も言わなかった。そもそも、リュナ自身がファーストネームしか名乗っていない。
 ライゼスが二人分の紹介しかしなかったので、自然リュナはティルの方へと目を向けた。無言で促され、渋々ティルが口を開く。
「……ティルだ」
「ライゼスさんに、ティルさん。改めてごめんなさい。あたしのせいで、セラさんをこんな目に遭わせちゃって」
 ティルが短く答えると、リュナはしゅんとして頭を垂れた。湿ったツインテールが、揃って顔の前に垂れる。
「もういいですよ。あなたの言うとおり、セラに負担をかけていたのに気付かなかった僕が悪かったんですし。こうして休ませることができましたから、かえって良かったです。休めって言ったところで聞かないですから、彼女」
 優しく声をかけると、リュナはおずおずと頭を上げた。改めて顔を見るが、やはり幼い。一人であんなところにいるのは不自然である。セラのことが落ち着いた為、ライゼスはリュナについて聞いてみることにした。
「それより。さっき精神魔法と言っていましたが、もしかしてリュナはマインドソーサラーなんですか?」
「え? ええ、一応。ああ、もしかして、ティルさんはそれであたしを警戒してるんですか?」
 ライゼスの問いに、ふと思い当ったようにリュナは再びティルへと視線を投げかけた。黙してセラの方を向いていたティルは、率直に聞かれて気まずそうな顔をした。
「よく誤解されてるけど、マインドソーサラーって、ほんとに人の心を操ったり読んだりするわけじゃないですよ。少なくとも私にはそれほどの力はないし、あったとしてもそんな悪趣味なことしないわ」
 リュナがニコッとティルに笑いかける。
「強いて言うなら、人よりちょっとだけ、人の心の機微に鋭いってくらい。恐れとか、動揺とか、迷いとか、そういう心の弱さを捉えて魔法をかけるの。だけど持続しないし、実際に傷つけることもできない。だからそんなに警戒しないで」
 無邪気な笑顔にほんの少しの寂しさが混じると、そこでようやくティルも瞳から剣呑な色を消した。美貌に表情が戻ると、途端に冷たさが消え失せる。
「ごめん。ちょっと苛々してた」
 それで、ようやくずっと陰鬱だった場の空気が和らぐ。そのことに、ライゼスもほっとしていた。あまりふざけられても腹立たしいのだが、ティルが大人しいとそれはそれで気持ち悪い。だいぶ毒されてきたようだ。
「あたし、セラさんが気が付くまで看病します。女の人だもの、同性のほうがいろいろ都合いいと思うの」
「それは助かりますけど。あなたもどこかに向かう途中じゃなかったんですか?」
「依頼の途中だっただけです。期日までまだ日はあるから、気にしないでください」
「依頼?」
 聞き返すと、リュナはごそごそと懐を探った。そこからいくつか紙束を取り出す。それをめくりながら、彼女は言葉を続けた。
「野盗の掃討。あたし、賞金稼ぎして旅してるから」
 その中の一枚に目を落とし、告げる。目の前の幼い少女と、賞金稼ぎという物々しい肩書がまるで釣り合わず、ライゼスは思わずまじまじと彼女を見てしまった。だがすぐに失礼だと気づいて、彼女がそれに気づく前に視線を外す。
「うん、まだ大丈夫。セラさんは私が診てますから、ライゼスさん達も少し休んだ方がいいですよ。憔悴して見えます」
「でも――」
「自分の為に無理をされることが、負担になることもあります」
 妙に核心をついた彼女の言葉に、ライゼスがはっとなる。リュナの深い蒼の瞳は、月明かりの夜のような優しい色をしていた。幼いのに、彼女はどこか大人の憂いをまとっている。
「だから、休んで下さい。二人ともです」
 穏やかだが、強い口調のリュナの言葉に、ライゼスもティルも頷くしかできなかった。