攫われの偽姫 1



 不安定な揺れ。馬の蹄の音。
(ああ……馬で連れさられてんのか)
 夢うつつに、ティルは理解した。よくあることだ、理解するのは容易だ。だが、理解してしまえば、不快感が襲ってきた。理由は単純だ。ティルは馬上が嫌いだった。
 殺されかけたことも数多いが、連れ去られたこともまた多かった。何度も誘拐されかけ、そのうちの何回かは、兄ラディアスが助けてくれた。しかし厄介者のティルにラディアスは優しくはなかった。助け出され、その黒馬の背に乗せられたときの、なんと気まずいことだろう。結局、馬上に良い思い出などない。
 否、そもそも過去に良い思い出などない――
 そこまで思考をめぐらしたとき、唐突に周囲の風景がティルの目に飛び込んできた。今度こそ彼ははっきりと覚醒した。めまぐるしく移り行く景色。馬上。いや、馬上より少し横。体全体が風を受けている。一瞬混乱しかけたが、腰に回る太い腕に気付いて驚愕した。途切れた記憶の最後に見た男に、片腕で抱え上げられたまま馬で運ばれているのだ。
(嘘ーぉ。どんな腕力してんの)
 どれぐらい気を失っていたかは定かでないが、数分という単位ではない気がする。ティルはその容貌から華奢な印象を持たれることが多いが、実際は身長も体格も歳相応の標準男子並みにある。それなのに、横目で様子を伺っても男に疲労は見えないし、抱えた腕も安定している。
「大人しくしていろよ。暴れたら落ちるだけだ」
 ティルが起きたことに気配で気付いたのだろう、男が釘を刺してくる。
(ちっ……。三流くさい台詞を吐くから三流だと思ってたが、安直すぎたか)
 胸の中で吐き捨てて、ティルはしばし出方を考えた。まず最初に刀を確認する。あった。これで大抵はなんとかなるだろう。だが、それでも力量は五分五分といったところか。危険な橋を渡るより、このままノルザまで連れて行ってもらうほうが効率がいいだろう。そう結論づけて、ティルは暫くの間我慢した。そう、『暫く』は。
「もう限界だァァァァァァァァァ!!」
 結局幾ばくも経たぬうちに、馬上には切羽詰ったティルの叫び声が響くことになっていた。
 スカートを翻して片足を振り上げ、思い切り馬の尻めがけて振り下ろす。驚いた馬が男の制御を離れ、それによって手綱を握る男に一瞬の隙ができた。無論、それを逃しはしない。その間にティルは片手で手綱を掴み、同時に逆の手を跳ね上げて、男の顎下を撃ち上げた。男が呻き声を上げると共に彼の腕の力が弱まり、自由が返ってくる。
完全に不意をつかれてバランスを崩した男から馬上の主導権を握るのは容易で、暴れる馬から彼を蹴落とすのにもさほど難儀はしなかった。その後で、ゆっくりと馬を落ち着かせ、ティルは馬を降りた。
「俺に触るな。男が近づくと虫唾が走る」
 抜刀しながら、うずくまる男に歩み寄る。冷たく吐き捨てると、男は倒れたまま小さく声を漏らした。それを聞いて、ティルは刀の刃をぴたりと男の頚動脈にあてがった。
「生きてるな。じゃあ、首吹っ飛ばされたくなかったら質問に答えろ」
「お、お前……何者だ」
「誰がお前が質問を許したよ?」
 僅かにティルが手に力を込めると、男の首筋に赤い線が走った。焦ったように男が諸手を上げる。
「悪かった。許してくれ。だが、頼む、俺とノルザに来てくれ。それだけでいい。お前もノルザに行きたかったんだろう?」
「だーかーらー、俺が質問するって言ってんの。テメェが喋んな!」
 苛立ちのままにさらに手に力をこめると、ようやく男は喋るのもやめた。
「まぁいいや。で、なんでそんなに俺をノルザに連れていきたいわけ」
「……」
「そー、頭飛ばしたいわけね」
 この期に及んで言い淀む男に、ティルは両手で刀の柄を握り直した。いくらティルでも大人の男の首を飛ばすほどの腕力はない。しかしその動作と狂気じみた殺気に、男は顔色を変えて喋り始めた。
「か、金になるからだ。カルヴァート伯はお前を買う。大金どころじゃねえ。国が買えるくらいの金が入る。そしたらオレはこの件から足を洗うんだ」
「何で伯爵が俺をそんな大金で買うんだよ」
「お前がフィアラにそっくりだからだ」
 ふいに男が出した名に――ティルは驚愕のあまり、うっかり刀を引きそうになった。慌て冷静になるよう努める。聞いておきたいことが増えた。
「……誰にそっくりだって?」
「フィアラだ。フィアラ・ハーレット。銀髪碧眼の絶世の美女で、カルヴァート伯がずっと想い続けている女だ」
「カルヴァートは百年くらい生きてると聞いたが、フィアラ・ハーレットはそんなに年寄りじゃない筈だ。それに、ランドエバー人でもない」
 ティルが確信の篭った声で告げると、男も頷いた。
「そうだ。百年生きてるかどうかは知らないが、伯爵が美女を集め始めたのはせいぜいここ二十年くらいのことだ。それ以前は戦火を逃れファラステル大陸にいた。フィアラとはそこで出会ったと言っていた。――お前、フィアラ・ハーレットを知っているのか」
 またも質問されてティルは苛立ちを募らせたが、堪えた。まだ話を最後まで聞いていない。だが脅すのも飽きたので無視した。
「フン、で、伯爵はなんで美女を集めてる。フィアラ・ハーレットに関係あるのか?」
「大有りだ。伯爵はフィアラに一目惚れし、戦争の終結と共に国に連れ帰った。そして、フィアラに釣り合うよう 若さと美を求めて悪魔に魂を売ったんだ。だが、フィアラはその後伯爵の元を去っちまった。その上、なんとかって小国の国王に見初められて王家に迎えられたって話だ。……なんて言ったかな。リル……リルドア?」
「リルドシア」
 抑揚のない声でティルが呟く。呟いたのは確認ではない。ましてや質問でもない。
「ああ――そうだったかな。とにかく、それで手が届かなくなると、余計に伯爵は狂っちまったようでな。伯爵は フィアラに認められるまで、美女を生贄にし続けるつもりだろう。もう会えないってのに」
「ちょっと待て。生贄だって? じゃあ今まで攫った女は――」
 ふいにティルは碧眼を細めた。嫌な予感が脳裏を掠めたからだった。そしてその嫌な予感を、男はあっさり肯定してくる。
「生きちゃいねえよ。それが功を奏しているのかどうか知らんが、確かに伯爵は歳を取らない」
「貴様はそれを知った上で女達をノルザに運んでたのか!」
「待てよ、俺だけじゃねえ! 何故これが十数年も王国にばれなかったと思う。騎士団の一部も癒着してんだ! 大体、永遠の美なんてものを信じて向こうからやってくる女が馬鹿――」
 しかし男の言葉はそこで途切れた。そしてそれ以上、言葉を紡ぐことはできなくなる。
 ティルはため息を吐くと、刀を振って血を飛ばした。無抵抗の人間を斬ったことよりも、男の言葉の方が胸が悪く、吐き気を催させた。
 殺されるとわかっていて女を集め続け、挙句伯爵の目に叶わないと判断すれば乱暴も辞さず売り飛ばし、そんなことを何年も続けておきながら、男にはまるで罪悪感などなかったのだ。
「……美しいことなんてロクなことじゃないとしか言えないな」
 永遠の美を求めて悲惨な末路を辿った女達を憐れみ、ティルは皮肉を呟いた。だが感傷に浸っている場合ではない。刀を元通りドレスの下に仕舞うと、ティルは馬に跨った。
「さて。戻ったらセラちゃんと行き違いになるかもしんないし、ここはやっぱノルザに向かいますか。騎士団の癒着とかキナ臭くなってきたし。任務以前に、なんか俺に因縁のある話みたいだし……」
 ため息と同時に吐き出して、ティルは馬の腹を蹴りかけ――
 ――だがふと、そのまま硬直した。
「……ていうか、ここどこ?」
 気を失っていたため、どこから来たのかわからない。また現在位置もわからないので、ノルザがどの方向にあるのかもわからない。
 早まったかもと焦る彼の前を、ひゅう、と冷たい一陣の風が吹き抜けていった。