19.
遠慮がちなノックの音に、ティルは不機嫌を隠しもしない声で答えた。扉が開き、ライゼスが部屋の中に入ってくる。
「セラは……」
椅子にかけて、テーブルに頭をもたれかけさせたまま、ティルは視線だけを動かした。それを追ったライゼスの視線の先に、ベッドで眠っているセラがいる。
ライゼスは黙ってつかつかとティルに歩み寄り、胸倉を掴み上げた。
「なんにもしてねーよ! してたらこんな不機嫌じゃねーわ!」
「…………」
抵抗もせず、猫のようにダランと垂れ下がってティルがわめく。その様子は少なくとも嘘をついているようには見えず、ライゼスは手を離した。彼が嘘を吐くときは、嘘だとも疑わせないほど自然に吐く。
「文句があるなら、男の部屋で無防備に突然爆睡するような教育をした教育係様に言って欲しいね。俺も是非とも言いたい」
どすん、と再び椅子に座って、ティルは半ば自棄のように文句を言ってくる。ライゼスは半眼で彼を見返しながら、もう一つの椅子に腰を下ろした。
「ていうかそんな疑うんなら俺に任せるなよな。今後も何もしないとは言わないぞ。お前と違って健全な成人男子なんだよ」
「人を健全じゃないみたいに言うのやめてくれます? 自分だって結局何もしなかったんでしょうに」
「していいのかよ……」
「何で僕に聞くんですか。嫌ならセラが自分で抵抗するでしょう。あっさり決勝まで行くような人なんですし」
「その割にはさっき殺しかねない目してたぞ」
「それとこれとは話が別です」
ティルが嘆息して、話が途絶える。外から微かに祭りの喧噪。時計の針が動く音。セラの寝息。間もなく正午を過ぎる。ライゼスの声がそんな気怠さを裂く。
「……貴方は……セラが勝てば、このままランドエバーに残ってセラと結婚するつもりなんですか?」
率直な問いかけに、ティルはまた頭をテーブルに乗せた。確かにこのままならそうなるのだろう。だがそれはあまりにも現実味がなかった。
「自分はどーなんだよ」
「聞いてるのは僕なんですけど」
机に突っ伏したまま、ティルが答えるまでにそう時間はかからなかった。
「俺は……傍にいられるのなら、何でもいい」
「ランドエバー国王になっても……ですか? そこまで考えて言ってます?」
「……んー? セラちゃんが女王になるんじゃなかったっけ?」
のろのろとティルが頭を起こして、不思議そうな声を出す。しかしライゼスにとっての問題はそんなところではない。
「だとしても意味合いは同じでしょう。セラに政治なんてできるわけないじゃないですか」
言いながら、ライゼスはちらりとセラに目を走らせた。彼女は気持ちよさそうに眠っていて、まだ起きる気配はない。
「貴方、僕が元老院を潰すと言ったときに、それでは国が立ち行かないみたいなこと言ってましたよね」
「……院を潰す……? お前そんなこと考えてんの?」
「――? 覚えてないんですか?」
ふとライゼスは相貌を見開いた。一瞬だけ交錯した視線は、すぐにふっと逸れた。
「あ……いや。どのみち、ランドエバーはこのままじゃいずれ立ち行かなくなるよ。でも陛下もそれくらいわかってる筈だ。王政に変わるようななんらかの仕組みを考えてると思う」
ライゼスはしばし怪訝な顔をしていたが、ティルの言葉がそこまで及ぶと目つきを変えた。
「何故そうだと?」
「いや、明確な根拠はないけど。違うの?」
「いえ……そこまで真面目に国の行く末など考えたことがなくて……」
罰が悪そうにライゼスは目を背けて頬を掻いた。彼にしては珍しい表情ではあるが、それを見てティルは根拠を得た気がしていた。
大国の驕りと言った、兄の言葉は核心をついている。
(お前ですらそうだからだよ……)
その言葉は胸に仕舞って、再びティルは顔を伏せた。そんな彼の胸中など知る由もないライゼスは、その傍らティルが国を継がされそうになっていたのを思い出していた。国王がそのための教育まで受けさせていたかは怪しいところではあるが、彼ならば万一に備えてそのために必要なことは一通り学んだに違いないと、今ならその確信が持てていた。
「この国について、貴方の見解を一度聞いてみたいですね」
「ふっ……」
机に突っ伏したままのティルから笑い声が零れる。何故笑うのかわからないライゼスに、ティルはわざと曖昧に答えた。
「最近同じこと聞かれたと思って……」
「? 誰にです」
「いや。お前の参考になるほどのことは言えねーよ、多分」
再び会話が途切れる。その時間は、だが今度はさほど続かなかった。
「なんかつまんねーな……なんでだろ……」
頭を上げ、背もたれにもたれて椅子を揺らしながら、ティルが心底不思議そうな声を上げる。
その疑問の答えを、なんとなくライゼスは知っている。しかしそれは口にせずに、ライゼスは立ち上がった。
「ティル」
不意に呼びかけると、ガターンと派手な音が背後で上がった。
「な――なんだよ。急に呼ぶなよ気持ち悪いな」
椅子ごとひっくり返ったティルが驚愕のこもった声で言うのに、ライゼスはついと目を背けた。
「いえ。そろそろセラを起こしましょう。昼食も取らないといけませんし」
「全然腹減ってないけどな」
概ねライゼスも同意だったが、起き上がって衣服を払うティルを後目にライゼスはベッドへと足を向けた。名前を呼んで肩を揺らすと、すぐにセラが薄目を開ける。
「うーん……良く寝た。腹減ったな」
「マジで……?」
運動したならともかく、ただ寝ていただけで腹が減るのは甚だ謎である。信じられない、というティルの声にセラが顔を上げると、紫の瞳とかちあった。
「ラス、戻ってたのか。あれ……私いつの間に」
「いくら婚約者といえど、みだりに男性の部屋で寝るものではありません」
ライゼスの小言を受けて、そこでようやくセラはここが自分の部屋でないことを理解したようだった。慌ててガバリと起き上がるその顔はうっすらと赤い。
「ご――ごめん。実は昨日、あまり眠れなくて。そこまで緊張しているつもりはないんだが……」
ベッドを降り、上着を取ろうとするセラの手が震えている。鈍いセラのことだからそれほど自覚はないのかもしれない。または、今までに緊張した経験があまりにもないだけかもしれない。だが実際は相当緊張しているのだろう。意識はしていなくても、体が強張るほど。
「……行きましょう」
そんなセラに、ライゼスは手を差し伸べた。少し罰が悪そうに微笑みながら、セラがその手を取ってベッドから立ち上がる。だがその手はまだ微かに震えている。
ライゼスは無言でティルを振り返った。彼もまた無言だったが、視線に気づいて――恐らく言わんとしていることにも気づいたのだろう。一度だけ視線を落としたが、それからは何事もなかったかのようにこちらへと歩んできた。
「どうぞ、お姫様」
冗談めかして手を差し出すと、セラがむっとしたように睨んでくる。苦笑して、ティルはセラの空いた片手を自分で取った。
「行こう、セラちゃん」
「……ああ」
セラがいつもの勝気な笑みを浮かべる。その手はもう、震えていなかった。