18.


 食事を終え、席を立った三人の、うち二人の足取りは重い。一人軽いのは当然セラだ。
「さて、決勝は昼過ぎからだ。祭り見物でも行かないか?」
 のろのろとついてくる男二人を振り返ると、だが彼らはどこかげっそりとした面立ちをしていた。
「ちょっと俺食休み……」
「貴方ほとんど食べてないじゃないですか……」
「数日ぶりの食事であんなもんマトモに食ったら吐くわ」
 ぼそぼそと会話を交わすライゼスとティルを、セラがきょとんとして見る。
「そうなのか? 朝だろうが夜だろうが久々の食事だろうが、私はあんまり変わらないけどな」
 結局ほとんどをセラが平らげた。いつもなら呆れるライゼスだが、このところセラも普段ほど元気や食欲があるわけでもなかった。
「食べ過ぎて試合で動けなくても知りませんよ」
「まだ昼も食べてないのに気が早い――」
 セラがふと言葉を止めたのは、分隊の制服を着た騎士がこちらへ駆け寄ってくるのが見えたからだ。彼はセラに気が付いて敬礼すると、だがライゼスに視線を伸ばした。気付いてライゼスが片手で制する。
「……ちょっと分隊の駐屯所まで行ってくるので、その間セラを頼みます」
「……」
 ライゼスが騎士と連れ立って宿を出て行く。それを見送り、その姿が消えてたっぷり十秒ほど経ってから。
「え、今の俺に言った?」
「他に誰がいるんだ」
 セラが呆れたように腕を組むが、彼女も僅かばかり驚いた顔をしていた。
「……何かあったのか?」
「さぁ。それよりどーする? 祭り見物行く?」
 あからさまにはぐらかされて、セラは半眼になった。だがすぐに目を伏せ、首を横に振る。
「……本調子じゃないだろ? 無理するな。部屋に戻ろう」
 気のない声で歩き出すセラを、追いかけようとしてティルは足を止めた。
「俺は……隠し事もするし場合によっちゃ嘘もつくよ。それじゃ一緒にはいられないかな」
 セラの歩みが止まる。その背しか見えないが、彼女が小さく溜息をつくのが見えた。それからセラは振り返ると、戻ってきて開いていた距離を埋める。
「いいよ。それがティルなら」
 ふわりとセラが微笑む。ティルは目を細めると、手を伸ばして彼女の髪に差し入れた。途端にセラの顔に朱が差す。
「ひ……人が見てるぞ」
「いいじゃん、婚約者なんだから。何か問題でも?」
「いや、よくわからんが、人前でそーいうことは慎むものじゃないか?」
「じゃー部屋に帰ってゆっくりと……」
 言いながら、突然ティルは手を引いて、首を横に傾けた。セラが赤面したまま怪訝な顔をする。
「……ボーヤいないんだった。条件反射で避けちゃうな……」
 ティルがスタスタと歩き出して、今度はセラがその背を追うことになる。
「茶化すなよ……」
「それが俺だし」
「開き直るな」
 セラ、ライゼス、ティルが滞在している部屋は、隣り合って一並びになっている。セラが自分の部屋を通り越したので、ティルは彼女を振り返った。その目だけで言いたいことを察して、セラが問う。
「……一緒にいていいか?」
「いいけど襲うかもしんないよ」
「好きにしろ馬鹿」
 刺々しい言葉を返して、セラが勝手に部屋に入っていく。どうしてこういうことだけ冗談に取るんだろうとティルは溜息を殺した。だがセラが入室してしまったために、仕方なくティルも部屋に入る。
「実のところ、結構緊張しているんだ。一人でいると落ち着きそうになくて」
「ふーん。セラちゃんでも緊張するんだ」
「失礼じゃないか、それ?」
 不服そうな声に、ティルが「はは」と笑った。セラは窓まで歩み寄ると、レアノルトの街並みを見下ろした。どの通りも出店と人でいっぱいで、王都の市場よりも活気がある。そこかしこで旅芸人が踊りや大道芸をしており、どこを見ても飽きなかった。そんなセラの様子を遠巻きに見ながら、ティルが声を上げる。
「行きたいなら行こうよ。それとも俺とデートがそんなに不服?」
「そうじゃなくて……、何かあったらお前に迷惑かけるだろ」
「かけられてみたいけどね、俺は」
 ふと、セラは、窓の外から目の前へと焦点を合わせた。窓硝子に映ったティルは、後ろ手にテーブルにもたれ項垂れている。
「いつも、俺がかけてばかりだし……」
「そんなことない。ラディアス王子のことだって、私が勝手をしてティルに迷惑かけてるじゃないか」
 振り返ってセラが反論する。それでもティルは顔を上げず、セラもまた俯いた。
「それに、ティルを自由にさせろと言いながら、帰さないだの関わるなだの……私が一番縛ってる」
「それは違う。セラちゃんは俺のために怒ってくれただけだろ。迷惑な筈なんてない」
 聞こえてきた言葉に顔を上げると、ティルの碧眼はまっすぐにセラを映していた。その青はいつもと同じだが少しだけ違う風にセラには見えた。
「……ティル、少し変わったな」
「そう……かな?」
 ティルが首を捻る。しばらく宙を睨んだ後、彼はセラへと目を戻した。
「……まぁ、俺は別にセラちゃんになら迷惑かけられても縛られても大歓迎だけどさ。多分セラちゃん勘違いしてるよ。俺は元々国に帰りたいなんて思ってない」
「そうなのか……? だって、ランドエバーには居場所がないって……」
「そんなもの、リルドシアにだってないよ」
 即答するティルに、セラの表情が陰る。そんなセラを見て、ティルは少し逡巡してから、口を開いた。
「……本当は、さ。帰りたくないって言うより帰るのが怖いんだ。父上の中にいた『(ティルフィア)』はもういない。今の俺を見ても誰だかわからないんじゃないかって……そうしたら俺は本当に独りになってしまうって、思って……、俺はずっと、父上に必要とされるためだけに生きてきたから……」
 ふと彼が零した言葉に、セラはクラストの魔法の中で見せられたティルとリルドシア王の会話を思い出していた。あれは幻影ではあったが、恐らくは実際にあったことなのだろう。
 姫でさえいれば、少なくとも父は愛してくれる。ずっとティルはそれに縋って姫を演じていた。
「違う」
 あのとき言えなかった言葉を、セラは噛み締めるように口にした。
「ティルは独りなんかじゃない」
「……わかってる」
 今まで決して届くことのなかった言葉をあっさりと受け止めて、ティルが微笑む。
「だから、セラちゃんが勝っても、一度リルドシアに帰るよ。父上や兄上とちゃんと向き合わないと、俺は過去にばかり縛られて、きっと前へは行けないから」
「……ティル……」
 そこにはもう、白亜の城でドレスを纏って哀しく笑う姫の面影はどこにもない。歳相応の青年の顔で微笑む彼は、だが世界で美しいと湛えられた姫君よりも遥かに美しく、セラは目を奪われた。今まで見たどんな名画も絹も宝石にも、心が動いたことなどなかった。だがこの笑顔からは視線を剥がせない。
 我知らずセラは彼の頬に手を伸ばして触れていた。白く透き通る肌は冷たかったが、触れると僅かに熱を帯びた。
「やっぱりティルは、世界一綺麗だ」
「……」
 それは、彼にとっては飽きるほど聞いた言葉ではある。なのに彼女が言うと違う。言葉は同じなのに、心が動く。瞳に移る笑顔が太陽より眩しくて、灼かれそうな錯覚を覚えながらも尚近づきたいと願ってしまう。
 だが、「頼む」と言い残した声がそれを止める。願いを叶えればきっと「約束」も果たされる。触れれば傷つけ、傷つければ殺される。それは枷であり、また命綱でもある。ただこの世から消える前に、まだもう少しこの笑顔を見ていたくて、ティルは自らの手をきつく手を握り締めた。
「……もう、居場所は必要ないよ。セラちゃんがいるところが、俺の楽園だから」
 セラは僅かに頬を染めると、ありがとう、と呟いた。