17.


 その後、ランドエバーの貴族たちの間ではしばらくざわつく日々が過ぎたが、それ以外は特に何事もなくレアノルト祭も剣術大会も滞りなく続いた。セラの元にはあまり耳慣れない貴族の訃報が届いたのみで、彼女は順調に試合を勝ちあがり、残すは決勝のみとなっていた。相手は当然、リルドシアの鬼神――第三王子ラディアスである。
 決勝当日となったその朝も、セラの様子に特に変わりはない。宿の食堂で、おおよそいつも通りの食事を乱雑に皿に盛り、ライゼスの向かいに腰を下ろし、いつも通りパンに噛みついている。
「緊張はしてなさそうですね」
「多少してるよ。けどどっちかと言えばワクワクしてるかな」
 ミルクでパンを飲み下し、セラは至って呑気な声を上げる。
「気楽なものですね……」
「今までずっと剣を持てば叱られていたものを、公務という大義名分のもと、自分より強い相手と戦えるんだ。こんな機会は中々ない」
 そのポジティブすぎる性格には度々胃を痛めたものだが、今度ばかりは頼もしいと感じる。そう感じてしまってから、ライゼスは複雑な気分になってフォークを置いた。
「どうかしたか?」
「いえ……」
 別にセラが勝ったところでライゼスには何のメリットもない。むしろ負ければ今後セラは大人しくなるのだ。なのにそれを望んでいない自分がいる。どれほど小言を言っていても、結局のところそれを跳ねのけて我儘を言っている彼女の傍にいるのが心地よかったのかもしれない。だがそれを自覚しても――いや、自覚したからこそ。
「楽天的すぎる貴方に呆れてるだけですよ」
「そりゃ悪かったな」
 ジト目で見返してくるセラに、綻びそうになる口元を隠すようにライゼスは食事を再開した。しばらく、二人共黙々と食事を続ける。その、ほっとするような、物足りないような何気ない朝は、だが唐突に割られた。
「おはよーセラちゃん。隣いー?」
 欠伸をしながら唐突に現れたティルは、返事を待たずにセラの隣に陣取ると、勝手にライゼスの皿からパンをつまんだ。
「ちょっと……」
「ティル! 今日は調子いいのか?」
「んー、まぁね。心配かけてごめん」
 片手に持ったパンを齧り、片手で跳ねた髪を撫でつけながら、ティルが答える。他愛のない会話ではあったが、セラは驚いたようにティルを見上げた。
「――ッ、し、心配したんだぞ!」
「うん。だからごめんって」
 食事の席にティルが姿を見せたのは、レアノルトに滞在してから初めてのことだった。彼は唖然としているセラの皿からフォークを取ると、またも勝手にライゼスの皿からサラダをつつく。
「……いい加減にしてくれます?」
「ああ、いたのボーヤ」
 そんなわけはないのだが、今気づいたと言わんばかりにティルが気怠い声を上げる。ライゼスは眉間に皺を寄せると、減った自分の食事を補充するために席を立った。だがそれを制するようにセラが席を立つ。
「私が取ってくる!」
 止める前にセラは席を離れていた。その軽やかな足取りに思わず破顔しそうになってしまい、咳払いをしてライゼスが腰を下ろす。席に座る頃には、ティルは仏頂面になっていた。
「……俺らしいってこんなかよ」
「だいぶ無理してる感ありますけどね。まぁ及第点としましょうか」
「そりゃどうも、ライゼス君」
 ティルの返しに、ライゼスは口に含んだ果汁を噴き出しかけた。
「前言を撤回します。落第点です」
「いや、だってもう坊やじゃねーだろ、お前」
「前から坊やじゃないです。そういう変な気遣うのらしくないですよ」
「そうかよ。まぁ、そーかもな……」
 片手でくるくるとフォークを回すティルに、ライゼスは行儀が悪いと苦言を呈した。一瞬だけ苦笑して、ティルがフォークを置く。それから仏頂面もおさめて彼は目を細めた。
「あれからどうなった?」
「別に、どうも。彼女の身柄はレアノルトの分隊に預けました。祭に影響が出ないよう、卿は当面の間病死という扱いに」
「お前、よくそれで納得したな」
「納得はしていませんが。事を大きくすればセラの王都召還はあり得ます。決勝を前に、それも僕の本意ではありませんから」
「……なんでだよ?」
 短い問いにライゼスは返事を迷った。彼にしてみれば今回のことはセラの気まぐれくらいに思っているのかもしれないが、セラは負ければ剣を棄てるとまで言っている。それをティルに告げるかどうかライゼスが迷っている間に、別の声が二人の会話を割った。
「これは兄上」
 ティルが取り繕った声を上げる。その視線の先では、黒髪黒目の長身の青年がいる。――ラディアスである。ピリつく空気を歯牙にもかけず、彼は二人の座るテーブルに視線を走らせた。
「決勝前に、セリエラ王女に挨拶をしておこうと思ったのだがな」
「姫ならじきに戻ります。ですが今更話すこともないでしょう」
 にべもなく告げるライゼスにラディアスが視線を向ける。その瞳が何か言いたげなのに気が付いて、ライゼスは名乗ってもいないことを思い出した。
「失礼を。姫の側近で、ライゼス・レゼクトラと申します」
「ほう……話には聞いている。で、騎士姫殿に戦わせて、お前達は高みの見物なのか」
「殿下は体調が優れず、主治医から戦闘を止められています。私は売るほどの名もございませんので」
「私はお前に聞いているのだがな、ティルフィア」
 水を向けられ、ティルは顔を上げたが、その表情に剣呑な色を乗せた。
「どこで誰が聞いているかわかりません。お言葉にはお気を付け下さい」
「失言だった」
 悪びれた様子もなく、ラディアスが短く詫びる。剣呑な色を瞳から消すと、ティルはさして興味のない面持ちで口を開いた。
「先日の非礼は詫びます。……ご質問の件、私の腕では祖国の名に泥を塗るだけでしょう。レイオス兄上に叱られるのは御免ですよ。兄上も努々ご注意なさって下さい」
「言うな。少しはマシな面持ちになったではないか」
「変わりませんよ、別に」
 ティルの冷めた声を、ドン、という音が割く。セラが力任せにトレイを机に置いた音だった。
「何か?」
「ご挨拶だな、セリエラ王女。今日は楽しみにしていると伝えに来ただけだ」
 珍しくラディアスが口元を緩め、他意のないその口調にセラは拍子抜けしてトレイから手を離した。
「……それは失礼した。私も貴殿と戦えることは純粋に楽しみにしている」
「ほう……私は女性だからとて手は抜かんぞ」
「そうか、残念だ。女性だからと甘く見てもらえれば楽に型をつけられたろうにな」
 珍しくセラが皮肉を言うと、ラディアスは益々楽し気に目を細めた。
「その姿勢、うちの軟弱な男どもに見習わせてやりたいものだな。では決勝で会おう」
 漆黒のマントを翻し、ラディアスが去っていく。その気配が食堂から消えると、ティルはふぅと息をついた。
「大丈夫か、ティル!? 何も言われてないか!?」
 その途端、セラに過剰なほど心配されて、ティルは思わず少しのけぞった。
「いや、ありがたいけど、さすがに心配しすぎ。そこまで子供じゃないよ」
「わ、わかっているが……」
 罰が悪そうに呟いた後で、セラは改めてティルを見ると微笑んだ。
「本当に、今日は顔色がいいな。ガンガン食えよ。ほら、ラスも」
 ライゼスとティルが、セラの皿を同時に覗き込み、同時に顔を背けた。ライゼスは乱雑な盛り付けも気になったが、それよりも――全体的に茶色いのが問題である。
「朝からこんな重いもの食べられませんよ……」
「何言ってるんだ。男だろ、お前ら」
 改めてセラの皿を覗けば、肉ばかりで野菜はほとんどない。仕方なく二人はフォークとナイフを手に取ったが、油の匂いだけで既に胃がもたれていた。