9.


 たっぷり20分は殴り合った後、ようやくライゼスとティルが馬車に乗り込み、御者が馬に鞭を打つ。しばらく誰も声を発せず、車輪が地面を踏む音だけが響いた。
 新品だった二人の騎士服は早くもあちこちが破れ、そこから覗く肌はあちこちが擦りむいたり腫れ上がったりしている。
「あ、あの……お二人とも、大丈夫ですか?」
 それまで微動だにしていなかったレミィが、ハンカチを差し出した。タイミングを測っていたのだろう。
「お構いなく。そのうち魔法で治します」
「そのうち……?」
「自分だけ治すのは大人気ないでしょう。でもまだこいつを回復する気分になれません」
 腕組みし、そう広くない馬車の中で精いっぱい隣と距離を取って、ライゼスがそっぽを向く。同様に隣と距離を取りながら、ティルは窓枠に肘をついて外を見ながら答えた。
「どーぞご自分だけ回復なさって下さい。お前の世話にはなりませんー」
「その顔で公に出る気ですか? 顔しか取柄ないくせに」
「そんな取柄なくて結構。どーせ俺には何の取柄もありませんよ」
「…………」
「…………」
 限りなく低レベルな言い合いのうち、顔を背けていた二人は喋るのをやめると睨み合った。そして、再び互いに顔を背ける。
 行き場のなくなったハンカチをひっこめて、レミィは驚きを隠せない声で呟いた。
「ライゼス様が誰かと喧嘩してる所なんて、初めて見ました」
 そこまで驚かれるほどの事でもない気がしたが、見苦しいには違いない。ライゼスは罰が悪そうに顔を背けたままで、詫びの言葉を口にした。
「すみません、見苦しいところを。この人があんまり馬鹿なので」
 しかし、どうにもうっかりと一言付け足してしまう。そして隣の人物もそれを聞き逃しはしなかったようだ。
「お前人を馬鹿馬鹿言いすぎ。馬鹿って言った方が馬鹿なんだぞ」
「子供ですか……馬鹿なのバレますよ?」
 呆れたようなライゼスの声に、ティルがハッとして口を噤む。他人の目があるところでティルが素を出すのは珍しい。
 殴り合いなどしたせいで気が抜けていたらしいと、話を変えようとしてティルは口を開いた。ついでにこの重い空気もなんとかしておきたかった。
「エルベール嬢、差し支えなければもう少しくだけて話せませんか? 正直、堅苦しいのは苦手なのです。ご覧の通り馬鹿なもので」
 ティルの冗談めかした声に、しかしレミィは戸惑ったように俯いた。
「で、でも……」
「無理にとは言いませんが」
「いえ、あの、すみません……わたし、こういう話し方しかできないんです。どうか殿下はお気になさらず。私のことはレミィで構いません」
 俯いたまま、レミィがボソボソと述べる。気を遣うなと言えば、気を遣わないように気を遣ってしまうようなタイプなのだろう。
「わかった。じゃあそうさせてもらう」
 ティルがそう答えると、レミィはほっとしたように息を吐いた。そうすると、また静寂が訪れる。
 リーゼアを交えた四人での移動中もギクシャクしていたものだが、今の気まずさはそれを遥かに凌ぐ。レミィはセラともティルともほとんど面識がないのだから、この場を繋げるのはライゼスだけだ。そのライゼスが黙したままではどうにもならない。
「……レアノルトの祭りというのは」
 沈黙が重くなって、仕方なく再びティルは口を開いた。
「どういう謂れがあるのかな」
 視線を向けられて、問われれば黙ることもなく、レミィが口を開く。
「あ、いえ、祭事というよりはただ経済の活性化を目的とした行事です。でも歴史は古くて、百年ほど前から定期的に行われている大きなお祭りですよ。レアノルトはリルステル大陸の玄関口ですから、他大陸からもたくさん人が来られます。殿下はご存知ありませんか?」
「……いや。恥ずかしながら世間知らずでして。良ければ色々教えて欲しい」
「すみません、そんなつもりでは……、ただ、それほど大きなお祭りと言いたかったのです。今年のメインイベントは剣術大会ですが、その他にもたくさん店や出し物があります。お時間の許す限り楽しんで行って下さい」
「ありがとう。剣術大会で陛下に声がかかるほどだから、相当な規模だろうとは思っていたけど」
「ええ、それは。ランドエバー中の貴族や資産家が出資していますし、王家の後押しもあります。レアノルトはランドエバーの経済の要ですから」
 何を聞いても、レミィはスラスラと説明書でも読んでいるように答える。今まで自信がなさそうに小声で喋っていたのが嘘のように饒舌に喋る彼女に、ティルはさらに質問を重ねた。
「剣術大会の他には何が?」
「有名な楽団や劇団も多数来ます。例年『雪の降る町』の公演が凄く人気ですよ」
「ああ……、名作だよね」
「ご存知ですか!」
「劇は見たことないけど、本なら昔何度も読んだよ」
「わたしも大好きで、毎年見てるんです! 宜しければ皆さんも如何ですか? 劇団にはエルベール家が結構出資していますから、今からでも席を手配できると思います」
「それは是非――」
 華やいだ声を上げたレミィに、ティルも微笑みを返す。だが急に言葉を止めたのは、不意に全身から鈍い痛みが引いた為だった。淡い光が周囲を包んでいることに気が付いて、会話の途中なのも忘れて隣に叫ぶ。
「勝手に回復すんなよ! 要らないって言っただろ!」
 ライゼスは外を見たまま答えない。そんな二人を見て、レミィは思わず口元に手を当てた。ライゼスがそんな子供染みた態度を取るのが珍しく、可笑しくなってしまったのだ。だがそれに気が付けば、後悔と羞恥が同時に押し寄せ、レミィは俯いた。
「申し訳ありません、姫様。わたし、勘違いしていたかもしれません……」
 ずっと黙していたセラが、レミィの言葉に我に返る。
「いや――」
 だが、喉につかえたように言葉が出てこない。そして結局その先は言えなくなった。
 スッ――と、場の空気が変わるのを、セラは確かに感じていた。その瞬間、馬車の窓を跳ね上げる。
「止めろ!!」
 良く通るセラの声を受け、馬車が急停止する。
 驚いて目を見開くレミィの前を横切って、セラは馬車から飛び降りた。辺り中に満ち溢れる殺気に、セラはそれまでの浮かない表情を綺麗に消し去って笑みを浮かべた。
「……ごりっぱな馬車だからさぞかし大層な貴族が乗っているのかと思いきや……王国騎士か!」
 セラの二倍ほどあろうかという頑強な男が憎々し気に唾を吐き捨てる。
「レアノルト祭に向かう貴族や資産家を狙った野盗共でしょう」
 ライゼスも馬車を降りると、周囲を牽制しながらそう答えた。それを聞いて尚、セラは益々楽しそうに笑う。
「大会前に良い準備体操ができそうだな」
 うそぶき、剣を抜き放つ。
「セリエラ・ルミエル・レーシェル=ランドエバーだ。覚悟はいいか、我が王国に巣くう鼠共」
 ざわり、と野盗たちが色めき立つ。最初に口を開いた男が、面白そうに口の端を上げた。
「ふうん……あの『太陽の騎士姫』セリエラ王女ね……」
「容赦はしない。死にたい奴から掛かってこい」
 その彼に向けて剣を突き付け、セラも涼やかに笑った。