4.



 時間が止まったのかと思うくらい、しばらくどちらも声を上げなかった。
 気まずい空気に、ライゼスは吐き出したくなる溜息をその都度堪えることに専ら気を割いていた。そうしては失礼だろうということくらいは彼にもわかる。といって、うまくこの場を切り抜けるほどに気がきくわけでもない。それは経験ではなく、向いてないのだろうとなんとなく考えていた。
 こういうことに向いているといえば、例えば『彼』なら上手く先を促すなり、はぐらかすなりできるのだろうと。それには例えば何と言うのだろうと――考えてしまって、思わず笑いが込み上げた。
「……?」
「い、いえ。ちょっとらしくないことを考えてしまって……」
「ライゼス様……らしくないこと?」
「ああその、気にしないで下さい。話を戻しましょうか……えっと、つまりレミィは縁談の話で来たんですか?」
 はぐらかすどころか、戻したくない話に戻した上に直球で聞いてしまった。しかし、他にどうしようもなく、ライゼスは開き直った。
 レミィはうっすらと赤面しながらも、こくんと頷いた。
「す――すみません。ライゼス様には姫様がいらっしゃることは、存じているのですが……」
「そのことは気にしないで下さい……と僕が言えることでもないのですが。何しろひどく曖昧な話ですからね……」
「私が言ってるのは、姫様の婚約者であるというお立場の話ではありません。昔から、ライゼス様は姫様がお好きなのだろうと思っていましたので」
「昔……?」
 ふとライゼスは怪訝な話をした。レミィと親しくなったのはレアノルトに出向くようになってからで、それは十二のときだった。無論そのときは講義をしに行ったわけでなく、自分が受けにいく方だったのだが。レミィは八歳からレアノルトのアカデミーに留学しており王都にはいない。
 彼女の差す昔がいつなのか測りかねた。十二歳の頃が昔と言えなくはないかもしれないが、その頃のセラとの関わりを、レアノルトで会うだけの彼女が知っているとも思えない。
「私が王都にいた頃、城の図書館で何度かお見掛けしました」
「そう……でしたか。でも……」
 図書館での記憶を探ってみても、セラに少しは本を読めとか教養を身に着けろとか説教した覚えしかない。ふと気になって、ライゼスはレミィに問いかけてみた。ずっと気にはなっていたが誰にも聞けなかったことである。
「その――僕と姫は、そんなに……なんというか、そういうような関係に見えるものですか?」
「え?」
「いえ。貴方に限らず、よくそういう風に言われるものですから」
 ライゼス自身としては、ティルに会うまではセラのことをそういう風に――有体に言えば恋愛対象として見たことはなかったつもりである。
 レミィは少し困ったように、眼鏡をおさえて小首を傾げた。
「えっと……むしろ違うんですか? としか答えようが……」
「正直、僕自身にもよくわからないんですよ」
 本当に正直なところを述べるしかなく、ライゼスは苦笑した。
「姫にお仕えしてから、いつか姫が嫁ぐときまでにしっかりと教養を身に着けて頂かなくてはと思ってきました。できればその後もお仕えできれば良いくらいの夢は見ていましたが、それくらいのもので……それも難しいだろうと諦めていたくらいです」
「はあ」
「でも、恋愛感情というものは、もう少し情熱的なものじゃないですか? 例えば、その人のためならなりふり構わず傍にいたいとか……攫ってでも自分のものにしたいとか」
「はあ……ライゼス様って意外とロマンチストなんですね」
 言われて、ライゼスは激しく赤面した。冷静に自分の発言を振り返ってみれば、我ながら何を言っているのだろうと頭を抱えたい衝動に駆られる。
「いえ……忘れて下さい」
 熱くなる顔を押さえていると、レミィの笑い声が聞こえてきて、余計恥ずかしくなる。思わず恨みがましい目を向けると、レミィは慌てて笑うのを止めた。
「いえ、ライゼス様を笑ったわけじゃないです。仰りたいことはわかりました。そういう恋も素敵だと思いますが、私も別に攫ってまで一緒にいたいとまで思ったことはありません。ライゼス様が姫様とご結婚されるなら、多分……祝福できます、心から。でも、できれば、」
 レミィは言葉を止めた。その先が継がれることはなかったが、ここまで言われればライゼスにもわかる。いくらそういう方面に縁がなくとも、セラほど鈍感にはなれないものだ。恐らくエルベール家の縁談話というのは、政略的なものではない。
「…………あの! 次の学会で発表する論文、持って来たんです。良ければ見て貰えませんか?」
 突然、レミィは話を変えた。だがライゼスは怪訝な顔をすることなく、微笑を浮かべる。
「……是非」

 ■ □ ■ □ ■

 空が暮れ始める頃、ライゼスはレミィを玄関口まで送り出していた。
「すみません。結局昼だけでなく、夕飯の用意までさせてしまって」
「いえ、とんでもありません。冷めても召し上がれるようなものにしたつもりですが、まずければ無理されないで下さいね」
「それこそとんでもないですよ。ありがたく頂きます」
 感謝を込めて深々と頭を下げる。彼女ならばヒューバートの言うように、結婚したら家事を任せられるかもしれないと考えて、慌ててライゼスはその考えを打ち消した。それはあまりに動機が不純すぎる。
「あ……あの!」
「は、はい」
 などと考えているときに、急に大きな声を出されてライゼスはどもりながらもなんとか返事をした。
「私、もうしばらく王都にいるんです。……明日も来ていいですか?」
「……ええ、もちろん」
 一瞬迷ったが、断る理由が見当たらず、そう答える。レミィは夕焼けを背にして安堵したように微笑むと、踵を返した。しばらく、それを見送っていたのだが。
「……そーゆーことね」
 突然間近で声がして、冗談ではなくビクリと肩が跳ね上がる。開いた扉の裏にいたティルが、家の壁に寄りかかりながら不貞腐れたような目でこちらを見ていた。
「な、何してるんですか、こんな所で!?」
「別に。セラちゃんの様子がおかしいから、大方お前となんかあったんだろーなと思って来ただけだよ」
「セラの……? 気のせいでしょう。何もありませんよ」
「ありありじゃねーか」
 肩を竦めるティルを、ライゼスは睨みつけた。
「……いつから聞いてたんですか?」
「人がずっと聞き耳立ててたみたいに言うんじゃねーよ。そこまで人間腐ってないぞ、まだ」
「まるでこれから腐るような言い様ですね。まあいいです、そんなことより病院抜け出すのはやめたらどうですか? 入院日数を増やしたいなら僕は止めませんがね」
「セラちゃんに一生入院してろって腹パンされたし、もう一生病院でいいよ……」
 急に弱々しい声を上げて、ティルは腹を押さえた。ライゼスは一瞬言葉に詰まったが、冗談を言っているように聞こえず怪訝な顔をした。
「よくそこまでセラを怒らせられますね……感心しますよ」
「お前が女の子と仲良くしてるからだろ。妬いて怒って八つ当たりされた気がするね」
「まさか。セラに限ってそんなことあるわけないです」
 不機嫌なティルの声を、ライゼスはいっそ笑って流した。
「……お前意外とセラちゃんのことわかってないんじゃねーの」
「そんなことありませんよ。そうですね。仮に本当にセラが怒ってたなら、玩具取られたくらいの感覚ですよ、きっと」
 溜息と共に吐き出すと、それまで不機嫌そうだったティルが急に弾かれたように笑った。
「あっはっは!!! 玩具取られたね。うん……なるほど。上手いこと言うなお前」
「……どうも」
 よくわからないことで褒められて、ライゼスは複雑な気分になった。相変わらず何を考えているかわからない相手ではあるのだが。
「あのときお前と呑まなくて良かったよ」
 そう言われれば、ライゼスも同意せざるを得なかった。歩き出すティルの背を見送るともなしに見ながら、踵を返す。
「そうですね。僕もそう思います」
 これ以上慣れあいたくないですから、と呟いて、ライゼスは家の扉を閉めた。もしかしたら彼とならいい酒が飲めてしまうのかもしれない。そう思うからこそ、あのときうやむやになって良かったと思う。
 できれば今後もいがみ合っていたいと、そう思うのは相手も同じようだった。