5.



 翌日、セラはいつものようにレゼクトラ家に足を向けてはいたものの、その足取りは軽くはなかった。とはいえ、レゼクトラ邸は城の敷地内にあり、大して距離があるわけでない。数分とかからずに辿り着いてしまうが、いつもは我が家くらいの気安さで開ける玄関の扉を開けるのに躊躇する。
 よくわからない複雑な思いを振り切るように扉を開ける。昨日は何も考えずにライゼスの部屋まで直進したが、立ち止まって注意深く耳を澄ましてみれば奥から楽しそうな笑い声が聞こえてきて、セラは踵を返した。
「……さて、どうしようかな……」
 ティルの所へ行こうかとも考えたが、そう思えばまた別の苛立ちが込み上げてきた。これもまたよくわからないが非常に腹立たしい。
「……。久々に城下町でも散歩するか……」
 決してセラはフラフラと出歩いていい立場ではない。しかし家庭教師が揃って匙を投げた今、セラの授業はライゼスとティルの二人が受け持つという珍事態になっていた。というのも、ちょうどその二人でセラが受けるべき教育が大体カバーできるのである。ライゼスが一般的な学問を、ティルが姫として必要な作法や教養をという具合であるが、その二人が揃って静養中なのでセラのスケジュールも空きばかりなのだ。つまり暇だった。さらにその二人を見舞うと言えば、婚約者であるという建前上特に止められることもない。
「考えてみれば、遊ぶのに絶好の口実だよな」
 ライゼスもティルも、自分がいなくても楽しそうにしているのだ。ならば自分も自分で勝手に遊んでも罰はあたるまいと、セラはうってかわって軽い足取りで町へと向かうのだった。

 ■ □ ■ □ ■

 昼過ぎ、結局セラは病院にいた。病院へ来たのはティルを見舞うためではなかったのだが、これもまた結局セラは彼の病室を訪れていた。外で耳を澄ませてみても談笑は聞こえてこなかったが、そっと扉を開けて中を伺ってみる。ティル以外には誰の姿もなく、また、彼もこちらに気づいて名を呼ぶことはなかった。眠っている。
 部屋に入って扉を閉めてもその目が開くことはなく、セラは少し驚いた。意識を失くしてでもなければ、ティルはあまり人前で眠ることがない。人の気配に鋭敏すぎてすぐに目を覚ましてしまうからだ。セラも彼が寝ているのを見たのは一度だけで、そのときもすぐに起きた。だが今は傍の椅子に腰を下ろしてもまだ気が付かない。
 どこか調子が悪いのかと不安になるが、その寝顔に視線を当てれば思考は奪われていった。  美人は三日で慣れるというが、相変わらずその美貌には溜息が出る。その癖本人には自覚がないのだから困る。この顔で急に近づかれて焦らない者などいないだろう。きっと、誰でもそうなるはずだ。
 髪が長い頃はもっと綺麗だった。そんなことを考えながら髪に触れると、その途端ぱっと碧眼が開いた。
「あ……ごめん。起こしてしまった」
「いつからいたの?」
 体も起こさず、ティルが驚いたような声を上げる。
「ついさっきだ。珍しいな、ティルが気が付かないなんて」
「俺もびっくりした……こんなことなかったんだけどな」
「怪我の具合……悪いのか?」
「そうかも。セラちゃんに殴られたから」
 セラがギクリとした顔をして、ティルは「冗談だよ」と笑いながら体を起こした。
「今日は遅かったじゃん。てっきり朝から来るかと思った」
「なんでだよ。それに、別にティルに会いに来たわけじゃない」
 そっぽを向くセラに、ティルは苦笑した。どうやら余程怒らせてしまったようである。
「じゃあ何しに来たの」
「ちょっとティルに頼みがあって……」
「頼み?」
 それこそ珍しいことである。だがその肝心の内容を彼女はなかなか口にせず、ティルは先を促すように問いかけた。
「頼みって、何」
「言いにくいんだけど……」
 焦らされると色々考えてしまう。どうせこちらが期待するようなことではないとわかってはいるのに、セラの顔にうっすら朱が差すのが見えて何か期待しそうになってしまう。だが。
「金貸して」
「………………」
 セラから出た言葉に、ティルは半眼になった。
 まさか一国の王女から金をせびられるとは思わなかった。
「いや、俺入院中だし金なんて持ってないよ。でもなんで?」
「ないならいい」
「なんで?」
 気になったので何がなんでも問い詰めてみようと立ち上がりかけたセラの手を掴むと、彼女は僅かに表情を歪めた。良く見ると服の下に包帯が見えて、ティルが慌てて手を離す。
「ごめん、怪我してるの? ……もしかしてそれで病院へ?」
「…………」
 バレてしまったので、仕方なくセラはもう一度椅子に腰を下ろした。
「朝城下町を散歩してたら、馬車にひかれそうな子がいてだな……」
「……それでまさか馬車の前に飛び出したとか言わないよね?」
「そうだけど。間一髪だったな」
 あっけらかんと言うセラに、ティルは頭をおさえた。
「なんて危ないことを……」
「ラスには黙っててくれよ。何時間説教されるか知れたもんじゃない」
「ボーヤじゃなくても小言の一つも言いたくなるよ。気持ちはわかるけど無茶しすぎ。少しは自分の心配もしなよ?」
「それ、ティルにだけは言われたくない」
 憮然と言い返されて一瞬ティルは言葉に詰まった。責めるようなセラの目から目を逸らして、呟く。
「俺はいーんだよ、別に」
「何がだよ」
 死んだところで誰も困らないから、とは逆に怒られそうなので言わないでおく。
「……で、なんでお金がいるの」
「治療代が払えなくて」
「王女なのに……?」
 だからといって払わなくていいわけではないだろうが、城に請求すれば済む話である。
「王女だってバレたくないんだよ、城下に来づらくなるだろ? 大体ラスにバレるじゃないか」
「……それで、俺に頼み、ね」
 町でフラフラ遊んで馬車に飛び出して治療費を払えない王女など前代未聞だ。確かにライゼスが聞けば怒るだろうが――ティルは逡巡の後に枕元に掛けてある上着に手を伸ばし、そのポケットを探った。そして、取り出したものをセラに向けて弾く。弧を描いて手元に落ちてきたそれを見て、セラは怪訝な声を上げた。
「……指輪?」
「ランドエバーの通貨持ってないんだよ。でも、それなら金でできてるから払えるでしょ」
「これ、ティルのじゃないだろ」
 セラですらサイズが小さ過ぎて入らなそうなそれを見て、セラが曖昧に問いかける。ティルは一瞬考えるそぶりを見せたが、やがてニヤッと笑った。
「俺にだって、贈り物をする彼女くらいいるよ。いいでしょ、セラちゃんにだってボーヤがいるんだから」
 ――こんなことを言おうとしていたわけではない。なのに、一度口をついてしまえばもう止まることはできず、言葉は勝手に口を滑ってしまう。
「昨日だって今日だって、ボーヤが構ってくれないから俺のとこに来てるだけだろ?」
「なんで知って――」
 言いかけて、はっとしてセラは口を噤んだ。ライゼスに客が来てることをなぜ知っているかと問いたかったのだが、これではティルの言うことを肯定しているようになってしまう。
 だが、否定しきれないことも自覚していた。それに、ライゼスのこともティルのことも詰れる立場にないことにも気が付いた。彼が何を言いたいかを察して、俯く。
「私に、どちらかを選べと言いたいのか」
「そんなこと言ってないよ」
「言ってる」
「言ってない。だって俺を選ぶ理由がどこにもない。なのにその俺が『選べ』なんてどうして言える」
 俯き、シーツを握りしめて、ティルが掠れた声を上げる。
「ティル……」
「出てってよ。もう用はないだろ。都合のいい時だけ俺を頼るな」
 顔をあげて、尚も言い募ろうと口を開き――だが、言葉は何も出てこなかった。セラの頬を涙が伝うのを見たら、何も言えなくなった。のぼせた頭が、冷水でもかけられたように冷えていく。
「あ……セラちゃん、ごめ――」
 伸ばした手が触れる前に、セラは病室を出て行ってしまった。何もない空間に伸ばした手が、虚しく宙を掴む。
「……ダッセェ。嫉妬して怒って八つ当たりしてんの、俺じゃねーか……」
 都合が良いときだけだとしても、頼られないよりいいはずだ。優しく首を絞められているのでも、手を離されるよりはいい。なのに、誰を見ていてもいいと決意してここに来たはずなのに、気が付けば求めている。得られないと解っていて。そして気が付けば追いかけようとしていた。自分で泣かせて追い出した癖にである。
 押し寄せる後悔から目を背けるように、ティルは上着を羽織ると刀を手に取り、病室を出た。