エイプリルフール編

(2011年4月掲載)



 今日も今日とて、俺は黙々とノルマの素振り千本をこなす。
 素振りで強くはなれないけれど、エドワードはどんなに頼んでも絶対稽古に付き合ってくれないので、素振り以外できることがない。とはいえ、そんなことでもしてなければ体力も筋肉も落ちてしまうから、全くの無意味というわけじゃない。
 でも素振りをする俺を眺めるエドワードは、いつも何か不服そうだった。
「毎日毎日、よく飽きないな、君は」
 じっと俺を見ながら、ぽつりとエドワードが零す。いや彼女だってそこまでの強さを得るためには、継続的な訓練をこなしてきた筈だと思うが。
「体力落ちたら困るし」
「だから私が守ると言っているのに。そんなに私は頼りないか?」
 いーえまったくもって頼もしいです。それが悔しいとかいう気持ちは、きっと理解しては貰えないんだろうな。不満そうなエドワードの声に、俺は内心ため息をつく。
「でも、エドワードだって四六時中傍にいるわけじゃないだろ? 不測の事態に備えてってやつだよ」
 本音を言ったところで納得してもらえそうにないから、無難な理由を口にする。だがエドワードの表情からも声からも、まだ不満は拭えない。
「大体は、居る」
「でもほら……着替えとか風呂とか?」
 いくらエドワードが俺の傍から離れないっていっても、性別が違う以上どうにもならない点がいくつかある。しかしエドワードは俺の言葉にふむ、と頷き、
「では今夜からはそれも一緒に」
「ぶっ!?」
 とんでもないことを言う。俺は盛大に吹き出し、刀を落とし掛けてうろたえた。そんな俺を見て、エドワードも吹き出す。……、全くこの人は。
「あのさあ、俺で遊ぶのいい加減やめてくれないかな」
 刀を仕舞って――ちゃんと千本はこなした――、俺はそんな不服を口にする。俺がいちいち反応しなきゃいいんだけど、単純なんだからどうしようもない。そんな単純な俺をエドワードはしょっちゅうからかってくるのである。
「別に遊んでいないぞ。私はできるだけ君の傍で君の安全を守りたいと言っているのに、君が言うことを聞かないから――」
「だから俺はんな子供じゃないって! 戦場のド真ん中でもあるまいし、そんなに四六時中いてくれなくていいよ!」
 ついつい声を荒げると、ふと彼女が押し黙ったので、俺はどきりとした。……言い過ぎた。そうは認めても、謝罪の言葉が素直に出てこない。だって、エドワードはやっぱり少し過保護すぎるし、俺で遊ぶのもこのところエスカレートしてる気がするし。そうやって俺が意地を張っている間に、エドワードが先に声を上げる。
「……君が不安がると思って言わなかったんだが」
 俯き加減で彼女が発したのは、いつもより数段トーンの落ちた抑揚のない声で。思わず構える俺を、エドワードの静かな群青の瞳が射抜く。
「この砦は『出る』んだぞ」
 しかし、何を言い出すかと思えばそんなことで、俺は思わずせせら笑ってしまった。
「そんな子供騙しを……」
「君の世界では子供騙しかもしれんが、この世界ではそうではない。このヴァルグランドの砦でも、そう――今宵のような月のない夜はとくにだな。兵が突然消えるのだ。何の前触れもなくな」
 笑う俺を見るエドワードの表情に、ふざけた色はない。殺気にも似たプレッシャーをまとった彼女からは、いつもの穏やかな色も消えていて、俺の笑いも乾いてしまう。
「ここは最前線。すぐそこは戦場ぞ。常に死と隣り合わせの場所だ。甘く見るな」
 そんな威圧でもって、そんなセリフを言われれば、俺は立ちすくむしかない。エドワードは踵を返すと首だけで振り向き、ふっと息を吐きだした。
「だから君が一人にならぬよう、多忙な身に鞭打っていると言うのに……、君がそんなことを言うなら、もういい」
 言いながら、エドワードの表情が悲しそうに翳る。待って、と言う俺の言葉が実際に声になる前に、そんな悲しげな余韻だけ残して、彼女は奥の部屋に消えてしまった。
 残ったのは、暗闇と、静寂。
 確かに俺は甘く見ていた。この世界に来たばかりのときに見た戦場を思い出せば、未だに吐き気がこみ上げてくる。でもエドワードは、あの中で戦ってきたんだ。そんな彼女から見たら俺なんて子供と一緒だろう。エドワードは戦争の辛さも怖さも感じない場所に俺を置いてくれて、ずっと傍にいてくれてるのに――俺はつまらない意地なんて張って。
 エドワードがいないだけで、部屋はだだっ広くて寒く感じる。ごと、とどこかから響いた物音に、俺は滑稽なくらい肩を跳ねさせて、刀を引き寄せた。……エドワードが言っていたことは、本当なのかな。彼女が嘘をついているようには見えなかったけど、迷信を信じてるだけかもしれないし。でも戦場が近いのは事実だから、それを思うとやっぱり薄気味悪かった。
 気まずさと下らないプライドで、俺は少しの間耐えたけど。そんな小さな虚勢がいつまでも続くわけもない。悲しそうなエドワードの顔を思い出したら、謝らないとという気持ちも強くなって、俺は奥の扉を叩いた。だけど返事はない。
 寝てしまったのだろうか。そんな自問はすぐに打ち消す。エドワードは驚くほど寝起きがいいのだ。軍人の習性なのか、わずかな物音で覚醒し、寝ぼけるなんてこともない。だから例え寝ていたにしても、俺のノックと声で確実に目覚めた筈だ。なのに返事がないところを見ると――やっぱり怒っているのだろうか。
「エドワード、入るよ?」
 許可もなく淑女の寝室に立ち入る罪悪感より、さっき酷いことを言ってしまったという罪悪感の方が勝った。そう断りながら、扉を開ける。だけど、そこに彼女の姿はなかった。
「……エドワード?」
 もう一度名前を呼んでも、やはり返事はない。暗がりの中をベッドまで近づくが、やはりそこは空っぽだ。
 唐突に、さっきのエドワードの話が頭に蘇る。

 ――今宵のような月のない夜はとくにだな。兵が突然消えるのだ。何の前触れもなくな。

 まさか、と嘲笑う自分と、もしかして、と焦る自分がいる。だけど、現にエドワードがいない。出入り口はあの扉だけで、他にはないから、いない筈がないのに。
 焦りが競り勝つのはすぐだった。もう一度部屋を見まわし、それからベッドに登って反対側を覗きこむ。自分でもだいぶ錯乱していると思う。隠れているのでもなければ、そんなところにいる筈が――――
「…………」
「…………」
 闇に溶け込むようにして、そこで膝を抱えていた彼女と目が合って。
 俺は思い切り、呆けた。
 そうやって呆ける俺を見て、堪え切れなくなったように、ぷっと彼女が吹き出す。
「はは、もしかして信じたか? 昔ライに同じことをやったのを思い出したんだが、あのときはライが泣き叫びながら姉さん姉さんとかなり傑作で――」
 笑い転げる彼女を見て、頭の奥で何かがぷつんと音を立てて、切れた。
「ふ……ふざけんなよっ!!」
 俺の怒鳴り声に、エドワードが笑うのをやめてぽかんとする。そりゃそうだろう。彼女に対してこんな風に怒鳴ったことなんて一度もなかったんだから。いや、彼女に対してだけじゃない。自分で言うのもなんだが、俺は温厚な方だし、争いごとは嫌いだ。ムカつくことがあったって、大抵のことは笑って済ませてきた。でも今だけは、歯止めが利かなかった。
「俺、あんたは嘘なんかつかないって、信じてたのに……、騙したのかよ!?」
 ベッドの上に手をつき、シーツを握り締めて叫ぶ。心配した自分が馬鹿みたいで、腹が立つやら惨めやら色んな感情がない混ぜになるが、一番強いのは悲しみだった。俺を助けてくれた温かい手も、穏やかな瞳も、決して嘘をつくような人のものじゃないって。そう信じていたものが、全部裏切られた気がしたんだ。
「……済まぬ。しかし、ヴァルグランドでは年に一度、どんな嘘をついても許される日があってだな……」
 エドワードが気まずそうに頬を掻きながら、そんなことを言う。……なんだそのエイプリルフール的行事は。いやでも、例えエイプリルフールだとして、俺の気が晴れるわけじゃない。それなら余計に鬱屈した気分になる。ああどうせ、嘘のつけない俺はエイプリルフールは騙されることしかなかったよ。だから4月1日は好きじゃない。でも4月1日は俺の誕生日だ。さくらという名前の由来のひとつでもある。
 誕生日をひたすら騙されて過ごしたから、俺はとくに嘘が嫌いになったのかもしれない。
 だから、こんな些細な冗談でさえ、泣けてくるほど悲しい。
「咲良――」
 ふと、ベッドについていた手に温もりが重なる。そこに視線を落とすと、いつの間にかベッドに上ってきたエドワードが俺の左手を握り締めていた。
「済まなかった。許してくれ。今後一切、君に嘘は吐かぬと誓うから」
「そ、そんな――大袈裟な。もういいよ」
「ならば、ちゃんとこっちを見てくれ」
 言われてもなかなかそうできないのは、怒っているからじゃなくて。ただ泣きそうなのを見られたくないからなんだけど。
 考えてみれば、俺が馬鹿なんだ。ただの悪ふざけに、ここまで怒らなくてもいい。謝るのは俺の方だってことは冷静になればすぐに気付く。さすがに涙は流してないけど空いてる右手で目をこすり、顔を上げてエドワードの方に向き直った。けど、結局謝罪はできなかった。どこまでも真っ直ぐで真摯な双眸に、惹きこまれるように見惚れてしまって言葉を失くした。
「――許してくれないか。どんなことでも、するから」
 そんな言葉と一緒に、俺の手を握っていた手は、俺の頬へとあてがわれる。――落ち着いた思考は、状況を把握した途端にまたショートした。
 状況。暗い部屋の中、二人きり、ベッドの上で、至近距離で、見つめあって、触れ合っていて――どんなことでも?
「…………うわああああッ!?」
 無我夢中で飛び退った俺は派手にベッドから転がり落ちる。したたかに打ちつけた後頭部をさすっていると、ベッドの上から押し殺した笑いが降ってきた。
 懲りてない。この人、全然懲りてないよ……。
「す、済まぬ……、許せ……、き、君がいちいち可愛いのがいけないんだ」
 笑いすぎて息切れしている彼女の声に、俺はなんかもう色んなことを諦めた。
「言ってろよ……もう」
 しばらくエドワードの笑い声は続き、俺は頭をさすりながら憮然とする。ようやく痛みがおさまってきた頃に、彼女の笑いもおさまったようだ。すると急に眠気が襲ってきて、俺は立ち上がった。馬鹿なことをしているうちに、すっかり夜も更けてしまった。
「咲良」
 寝る、と言おうとしたらそれより先に名前を呼ばれ、返事の代わりに振り向く。ベッドの上で、彼女はいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「さっきのこと意外には、君に嘘を言ったことはない」
「……わかってるよ」
 そんなこと分かってる。俺がつまらない意地を張ったのが悪いんだ。だけど、そんな俺の考えを見透かして否定するように、彼女は小さく首を横に振った。
「嘘は言っていない。でも本当のことも言ってなかった。……一人の夜が寂しいのだと言っただろう。本当は、君を一人にしたくないのではなくて、私が一人になりたくないんだ」
 ――そんなこと言われたら。
 今度こそ、怒れないし、何も言えないじゃないか。
「ずるい」
「え?」
 思わずぽつりと口の中に零した言葉を、彼女は聞き取れなかったようだ。でも聞かせたいわけじゃないから別にいい。
 歩き出した足を止め、俺はベッドに背を預けるようにしてその場に腰を下ろした。
「……ここで寝る」
 返事がなかったので振り返ると、凄く嬉しそうに笑う彼女の笑顔を、丁度雲間から覗いた月が照らし出す。これ以上それを見ていたら同じ部屋で眠れなくなってしまいそうなので、俺は固く目を閉じた。