むらさめの誓い



 雨に煙る帝都は混乱に支配されていた。立ち竦む者、座り込んで呆然とする者、行動は様々だが誰の顔にも生気がない。
 そんな中を行き過ぎる男女がいた。
 恐怖と絶望に噎ぶ帝都の住人とは違い、彼らの目には光があった。ただし、表情といえば、周囲とそう変わりはなかった。
 ふとそれを自覚した少女は、ただ足を前に出すことで心を振り切ろうとしていることにも気付いた。そして恐らく、隣を歩く人物もそうなのだろうと。彼は自分よりずっと早いペースで歩いて行くので、ときどき小走りにならないと追いつけない。それは、今余裕がないのか、元々そんな配慮をするような人物でないのかはわからない。或いは、両方なのだろう。だがそのことを指摘しなかったのは、少女にそんな余裕がないからではなく、ただがむしゃらにでも前に進んでいたい自分の気持ちが合致していたからだと思う。
 少女は小さく息を吐くと、すっかり強張ってしまっていた表情を緩めた。
「……あの」
 小さく声を上げる。だが返事はなかった。聞こえていないのか無視されたのか定かではないが、もう少し声を大きくして、返事を待たずに少女は先を続ける。
「泣いてもいいですよ?」
「――は?」
 今度はちゃんと聞こえたのか、それとも無視しきれなかったのか。
 不可解そうな声をあげて、男は歩みを止めてこちらを見下ろしてくる。端正な顔をしているが、その表情はいつも険しい。だけど、今はそれ以上に、少し悲しい。
「悲しいんでしょう? だってあんなに姉さん姉さんって言ってたのに。もう会えないんですよ」
 少女も立ち止まる。
 心を抉ると分かっていて、あえて「もう会えない」という言葉を選んだのは、自分を諭す為でもあった。
 だからそれは自分に向けた言葉だった。言葉にしないと甘えてしまいそうだったから。そして、泣きたいのも自分の方であった。だが、男は小馬鹿にするように口元を歪め、それから視線を外してまた早いペースで歩き出す。
「悲しくなどない」
 表情は見えないが、きっぱりとそんな言葉を投げてよこしてくる。
「無理して――」
「無理などしてない。……この世で一番大事な人が、唯一友と認めた男の傍で幸せになるんだ。これ以上に喜ばしいことがあるか?」
「……」
 その言葉は筋が通っているし、納得できる。彼の大事な人は自分にとって敵だから全面的に彼と同じだとは言えないが、彼の友は自分にとってもかけがえない人だから、幸せであるならそれが一番望ましいと思える。
 これで良いのだとは、思う。
 自分の大事な人とも、これで永久の別れになった。だけど、死んで後も戦うばかりの過酷な運命からようやく解放され、これで眠れるのだと満ち足りた顔をしていたことを思い出せば、そこにあるのは悲しみだけではないと思う。
 だけど、それは納得できても、やはり別れは辛い。
 だからやっぱり、無理をしていると思う。
 少女はもう一度声をかけようと顔を上げ、だが男の方が先に声を上げていた。
「小娘」
「――は、はい。なんですか」
 いつの間にかまた彼は立ち止っていて、少女も慌てて歩みを止める。その呼称について不満を言うのも忘れて応えると、彼は少しだけ眉間の皺を緩めた。
「ここでお別れだ」
「え……」
 思わず動揺してしまう。
 共に歩む道でないことは解りきっている。そして、彼もまた自分にとっては敵にしかならない相手だ。その上、怒鳴るし愛想もないし、こちらのことは小娘呼ばわりだ。好意的な面などひとつもない。
 それでも、今一人になるのはどうしようもなく心細かった。
「……お前はフレンシア王に会うのだろう。僕もヴァルグランドに戻らねばならない。フレンシアに入れば僕は身動きが取れなくなるから、別ルートでこのまま直接ヴァルグランドへ向かう」
 なるほどそれは道理だ。
 ヴァルグランドに帰る彼が、来た道を使ってフレンシア経由で帰るのは無意味だ。フレンシア王都で別れれば、彼一人でフレンシアを出ることは困難だろう。ヴァルグランド人であることがバレてしまえば――それも、彼はヴァルグランドの王子だ。囚われてすめばいいが、悪くすればその場で命がないだろう。
「お前は……一人で大丈夫か」
 思わぬ言葉が降ってきたので、少女は考えを中断すると男を見上げた。だが彼はこちらを向いてはおらず、その目はどこか違う方を向いている。
「だ、大丈夫です。来るときだって一人で来たんですから」
 慌てて自分も目を逸らし、そのまま彼を追いこして歩き出す。
 立ち止っている暇はないのだ。今は一刻も早く、この状況をフレンシア王に伝えなければならない。そして、無為な争いを止めるのだ。それができるのは、現状自分だけだ。慕い、従っていた絶対たる存在が消えた今、自分がすることはそれを嘆くことでなく、それに縋ることでもなく、遺志を継ぐこと。そう強く自分に言い聞かせる。
「さよなら」
 だが歩き出す背に、雨水が弾ける音がする。駆け寄ってくる足音に振りかえる前に、手を掴まれる。
「おい」
 酷く無愛想な声に、だけどどこかほっとしている自分がいた。その理由はわからぬままに、掴まれた手に強く何かを押しつけられる。
「……これ……」
 それが何かを確認して、少女は軽く目を見開いた。凝った金の装飾に青の宝石が嵌まった指輪は、見覚えのあるものだった。
「どうして? これ、お母さんの形見なんじゃ……」
「聞け、小娘」
 戸惑いながら問いかけた言葉は、鋭い声に阻まれる。さっきほんの少し和らいだ表情は、いつも以上に険しくこちらを睨んでくる。
「“姉上”がいなくても、僕は必ず僕の力で、ヴァルグランドとフレンシアに平和をもたらしてみせる。そして堂々とハーシェン家の名と共に国境を越えて、それを返してもらいに行く。だから……待っていろ!」
 そう怒鳴りつけられて、少女は目を見張った。
 その刹那、たくさんの記憶が脳裏にフラッシュバックした。
 目の前で焼かれた故郷。奪われた家族。そんな混乱の中助け出してくれたひと。あの日から、ずっと敵国を憎み、抗い続けることで自分を保っていた。
 だがそれらはすっと消えて行き、目の前には、一瞬にして驚くほど見違えてしまった青年だけが残る。
 彼はずっと憎み続けてきたはずの敵国の王族なのに、今は心の中のどこを探しても、そんな感情が見つからない。そのことに戸惑いながらも、少女はぎゅっと指輪を握り締めた。
「……その前に、私が返しに行ってあげるわ! シスコン貧弱男になんて負けないんだから!」
「僕はシスコンじゃない!」
 わざと減らず口を叩きつけると、彼は眉を吊り上げてそんなことを叫ぶ。これでは先ほどの決め台詞も台無しだ。それがなんだか可笑しくて、少女は零れそうになる笑みを押しとどめた。
「じゃあ、私のこと小娘って呼ぶのもやめてください」
 そう言い捨てて、少女は男に背を向ける。そしてそのまま彼女は歩き出した。もう、彼は追い掛けてはこない。呼びとめはしない。気配は少しずつ遠くなっていく。
「なら次に会ったときには、せいぜいいい女になっていろ」
 少し遠くに聞こえた声に首だけで振り向くと、その後ろ姿は思ったよりずっと向こうにあった。なのに、何故か大きく見えた。
「……何よ。少しかっこいいじゃないの」
 握り締めた指輪を掲げて、それから少女はまた歩き出した。
 そして自分に言い聞かせる。これらの別れは全て、終わりじゃなくて、始まりなんだと。
 神の王国はもうない。聖少女も英雄もいない。だけど、憎しみが剣にも魔法にも勝るなら、その逆の感情だって何より強くなれる筈だと。
 そう信じて、少女はやがて走りだした。その顔には涙があったが、同時に晴れやかな笑顔があった。