無題



 このあたりでは珍しいくらいよく晴れた青い空は、見上げると目に染みる程だった。
 こんな空を見ると、幼い頃を思い出す。
 天気の良い日は、よく姉さんが外へと連れ出してくれた。父上に隠れ菓子を焼いて、母上の庭園で兄弟四人でそれを食べた。
 妹は、それを子供っぽいとよく馬鹿にしていたが、その実誰より楽しみにしていたのは皆が知ってることだ。天気がいいと、よく何か言いたげに姉さんの周りをうろうろしてた。
 無理もない。いくら意地を張っていても、母上が亡くなったとき妹はまだ小さかった。……僕もだ。
 僕たちは姉さんに母さんの面影を見てしまった。だから姉さんは、姉であると同時に母でもあろうとしてしまった。
 でも、姉さんだって本当は――誰かに甘えたかった筈なんだ。
 急に青空を見ているのが辛くなる。俯くと、僕は砦を背にして腰を下ろした。伸び放題の草が手に触れて、意味もなくそれを掴んでは千切る。
 そうしながら、僕はただ姉に甘えてはしゃいでいた幼い日の自分を呪った。
 姉さんは決して甘えなかった。泣かなかった。いつでも優しく、強かだった。
 そんな優しい人だから、母上だけでなく、兄上の隙間までもを埋めようとしたんだ。自分が傷つくのも顧みずに。本当は、それは僕がやらなくちゃならないことだったのに。
「…………ッ」
 手元から草がなくなって、その手を苛立ち任せに砦に叩きつける。今にも崩れ落ちそうなくせに、渾身の力で殴ってもびくともしなかった。ただ手の甲がひりひりと痛んだ。目をやると、皮膚がところどころ破れて血が出ていた。
 こんなもの、姉さんが戦で流した血に比べれば、その一滴にも満たない。
 痛みのうちではない筈だ。……だけど。
「……痛い」
「なにしてるんですか」
 突然声をかけられ、内心焦ったがそれを顔には出さずに振り返る。
 砦の陰から、咲良の従者がこちらを見ていた。
「お前こそ何をしている、小娘」
 そう返すと、その小娘は憤慨したように目の前に飛び出してくる。
「こ、小娘ですって? ヴァルグランド軍って本当に礼義知らずなんですね!」
「小娘だから小娘と呼んだまでだ。そもそもお前の名前など知らん。名前で呼ばれたいなら名乗れ」
 きんきんと喚かれ、思わず両耳を塞いだ。……こういうタイプの女は苦手だ。年頃といい、居丈高に怒鳴りつけてくるところといい、妹を思い出す。
「人に名前を聞くならまず自分が名乗ったらどうですか!」
「別に聞いてない」
 見当違いの要求を切り捨て、僕は立ち上がった。小娘がびくっと体を震わせて後ずさるが、別に危害を加えるつもりなど毛頭ない。ただ煩いので場所を変えようとしたのだが、歩き出しても怒鳴り声は追い掛けてくる。
「ば、馬鹿にしないで下さい! 私が戦えないと思って馬鹿にしているんでしょう? 私だって戦えます!」
 だが、敵意と憎しみの飽和した声に、歩みを止める。振り返っても、今度は彼女は震えなかった。双眸には涙が浮かんでいるが、すんでの所でそれを流すのも耐えている。
「……お前の主は、戦いに来たのではない筈だが」
「でも、でも、ヴァルグランドは家族の仇です! リディアーヌ様には従うけれど、私、やっぱりヴァルグランド軍は許せない!」
 年端もいかぬ少女から向けられる深い憎悪は、不釣り合いなだけにそら寒いものがあった。だが、敢えてそれを真っ向から受けて見せる。
「そうか。だが僕の母はフレンシア軍に殺された」
 怯んだのは小娘の方だった。
 数歩距離を詰めると、小娘は一歩だけ後ずさったが、それでも憎しみの消えない目がこちらを射抜いて、それ以上は後退しない。
「それでも、僕は僕の主が戦いを止めるというなら止める。許せというなら許す。だからこの会談の結果が出るまでお前とは戦えん。お前も従者として来たなら、軽率な行動は慎むんだな」
「な――」
 小娘が絶句する。何かを言おうとはしているが、全部言葉にはならずに滑っていくだけだ。
 嘆息して、僕はさっきと同じ場所に腰を下ろした。
 しばらく、沈黙が流れた。
「……どうして、そんな風に割り切れるんですか。それとも、あなたにとっての家族って、簡単に割り切れる程度のものだったんですか?」
「簡単じゃないし、割り切ってもいない。ただ、お前が矛盾しすぎてるだけだ」
「どういう――」
「矛盾してるだろう。リディアーヌは戦争を止めるためにこの会談を要求したんじゃないか? なのにお前は戦いを良しとする。お前が信じているのは自分と主のどちらなんだ」
「え、う……」
 小娘はついに呻くのみになって、ぺたりとその場に膝をついた。その拍子に、溜まっていた涙がはらりと落ちる。それを見て見ない振りをして、またため息が零れた。
 すぐ泣く女が嫌いというわけではない。むしろ、周囲にいる女性が皆強すぎるので、いっそこれくらい素直に泣いてくれればいいと思う。その強さを尊敬はするけれど、弱味を見せてくれないことには励ますこともできない。
「そもそも、お前の主は誰なのか良く考えろ。フレンシア王なのか、フレンシアの魔女なのか、それとも今お前の傍にいる者(・・・・・・・・・)なのか。誰かを信じ付き従う生き方を選ぶなら、揺らぐな。それができないなら、お前は楽な方へと逃げているだけだ。そういう奴は、最終的に誰かがこう言ったからと逃げ道を作る」
 反論はなかった。別に論争がしたいわけでもないからそれはむしろ都合が良かったが、ふと見るとさっき以上にぼたぼたと涙を流していて、思わずまた立ち上がってしまった。
「な、何故泣く!」
「だ、だって……、よくわからなくなっちゃって」
「わからなくなったら泣くっておかしいだろう!」
「なんでいちいち怒鳴るんですか!? 今考えてるんだから邪魔しないで下さい! 私だって、ちゃんと自分で考えられるんですからッ!」
 今度はどうでもいいことで噛みついてくる。
 理解不能すぎるのは、やはり数百年と対立する敵国の人間が故なのか。それとも――
「くしゅん」
 あれこれと分析するのを小さなくしゃみに遮られると、考えるのが途端に馬鹿らしくなった。羽織っていた外套(コート)を投げると、それにすっぽり覆われた小娘がその中でばたばたともがく。
「な、な、なんですか!?」
「お前煩いからその中で静かにしてろ」
 
 ――ほら、もう寒くないでしょう
 そう言って、自分の外套をこちらにかけて、姉さんが笑っていたのを思い出した。
 思い出の中で姉はいつも笑っていたけど、その中に本当の笑顔は一体どれだけだっただろうか。そんなこと考えもしないで、無邪気に慕っていた。
 ……そのせめてもの、罪滅ぼしに。
 僕は揺るがない。
 姉さんの望むことを行い、
 姉さんの行く道を拓く。
 それは正義である必要もなく、そしてその先に僕の幸せも、僕の望みも必要ない。
 ただ、姉さんの笑顔の為に。その幸せの為に。

 それが、僕の全てだ。