とこしえの別れ



 書面の文字に目を通し終えると、老兵は顔をあげて、ふうと重い息をついた。ペンを取り新しい紙を取り出しかけて、そしてやめる。逡巡の後にペンを置き、そしてもう一度嘆息した。
 これで、何度目のやりとりになるだろう。だが、書面の内容はいたちごっこで埒が明かない。これ以上は、「彼」がなんらかの成果を持って帰らない限りどうしようもなかった。
 だが時間はそう残されてはいない。
 ヴァルグランド第二王子の言を信じるならば、敵も指揮官を欠いている。迂闊に攻めてはこないだろうが、だからといってずっと手をこまねいているだけとは思えない。ルゼリアの支援がない今、攻められれば持ちこたえられないだろう。
「さて、どうしたものかの」
 詮無い独り言を零したそのとき、じっと音を立てて蝋燭の炎が揺れた。ふと感じた気配に振り返る。そこには何の姿もなかったが、老兵は口を開いた。
「……これは、お久しぶりです」
 傍から見れば独白にしか見えない問いかけに、だが答は間を置かずして返ってくる。
「姿も見せず失礼。それくらいの力は残しておくつもりでしたが、あまりに煩く呼びとめられたもので」
 何もない空間から、微かに少女の声が返ってくる。苦笑交じりのそれに、老兵もまた目元の皺を深くした。
「それは残念ですな。しかし、そうまでしてこの老いぼれに会いにきて頂けるとは、思いもしませんでしたぞ」
 体ごと声の方を向き、老兵が声に答える。相変わらずそこには何も見えないのに、老兵には白い髪に赤い瞳の少女が見えるような気がしていた。その、頑なな表情までもが。
「……聞きたいことがありました」
 そして、それが崩れるのが。
「あなたはわたしのことをさぞ恨んでいたでしょう。あなたが開きかけていた和平の道を閉ざしたのはわたしです。なのにあなたはわたしの下で戦う道を選んだ。いつ寝首を掻かれるかと思っていたのに……そんな素振りも見せなかった」
「これは心外ですな。儂は誠心誠意あなた様にお仕えしてきたつもりでしたが」
「そんなことは知っています。だから聞きたいのですよ」
 焦れたような声は、暗に時間がないことを示していた。それに気付いていたからこそ、老兵はふっと表情を固くすると、片手で顔を覆った。
「……そうですな。そう……最初は、或いは恨んでおったやも知れませぬ。ですが、あなた様の傍で戦ううち、あなた様のひたむきさに惹かれていたのもまた事実です。王が無血の道を選んだところで、うまく事が運んだという保証はない。この世の中に、正しい答など存在しない。そんな残酷な世界で、あなた様はご自分の信念を貫いた」
「買い被り、ですね。ですが、あなたがそう思ってくれているのなら、悔いなく逝けます」
「――咲良様は、どうされましたかの」
 ともすれば消えそうになる気配を、繋ぎとめるかのように今度は老兵が問いかける。
「魂の本来在るべき場所へと戻りました。……全てが在るべき姿に戻ろうとしています。無為な争いは終わる。血はまた流れるでしょうが、今度こそそれは新たなる時代を告げるでしょう。ですが――」
 そこで声は言い淀んだ。だが、その時間もないことは、声の主が誰よりも知っている。すぐに言葉は継がれた。
「あなたもまた、この世界に在るべき魂ではないのでしょう」
「やはり、気付いておられましたか」
「でも、あなたは戻れないのですね。わたしの力でどうにかできれば良いと思ったのですが……」
「お気持ちだけ頂いておきます。儂はもう、この世界に長くとどまりすぎた。おそらく、こちらとの結びつきの方が強くなっているでしょう。それに、あちらに儂の帰る場所は最初からないのですよ。老い先短い命は、あなた様の遺志を継ぐことに使わせて頂きたく思います」
 答える声はなかった。
 隙間風が行き過ぎ、消えそうな気配を攫って行ってしまいそうで、老兵は目を伏せた。神経を研ぎ澄ませることで、消えてゆく少女の、それでも今確かにここにある魂を、最後の瞬間まで感じていようとした。だが、消えそうな声は、それでもまだどうにか声として聞こえてくる。
「多くは……聞きません。また、その時間もありません。ですが……あなたはそれで良いのですか。自分の世界でもない場所で、本当のあなたは何を拠り所とするのですか……」
「拠り所など幾つもあります。王をお守りし、この国の剣となり盾となれたことも。あなた様と共に戦ったことも。咲良様と出会えたことも全て、この老いぼれの中で息づいておりますぞ。……しかし、そうですな。あなた様にひとつだけ、頼みがあります」
 返事はないが、老兵は答えを知っている。目を開き細めると、彼は立ち上がって足を踏み出した。
「真咲。世界の狭間に置き忘れたこの名を、どうか、持っていって下され」
 手を伸ばすと空気が震えた。
 その一瞬に、老兵は伸ばした手の先に微笑む少女の姿を確かに見た。
「わかりました、マサキ。貴方がわたしの影となりこの軍を支えてくれたこと、わたしは忘れません。わたしがこの生涯でぶつかり合えた唯一の人よ。どうか……あなたの心が安らかでありますように」
 それきり声は途絶えた。そして、立ちつくす老兵がいくら待てども、その声が再び耳に届くことはなかった。
「……ゆっくりおやすみ、リディアーヌ」
 目の奥に焼きつけた笑顔に、老人は慈しみを込めて呟く。
 それが、聖少女と崇められ、死して後も剣を振るい続けた、少女の儚い最期だった。