今日は朝からやけに暑い。と思っていたのに、さっきから妙に寒い。そのくせ汗が出て、頭がぼーっとして、体の節々が痛い。
これは、もしかしなくても。
「咲良、朝から気になっていたんだが、もしかして――」
俺が気付いた辺りで、エドワードも気付いたんだろう。だが、彼女が手を伸ばすのに気付き、俺は咄嗟にそれを避けてしまった。
「……」
「……」
まるで弟さんのように、エドワードが眉間に皺を寄せるのを見て身構える。そして軌道を変えて向かってくる彼女の手はさっきより早くてよけ切れず、思わず掴んで止めると、逆に彼女は俺の手を掴み返して捻り上げられた。
「私に挑もうなど百年早い」
そういう言葉は、彼女が言うとひどく様になる。ああ、勝てるなんて思ってません。ただでさえ勝てないのに、こんなへろへろじゃ抵抗ひとつ試みることすらできやしない。だが諦めて大人しくなった俺の額にひやりとした感触があると、その直後に自由は返ってきた。だがもう今更取り繕う意味もなく、そうすると意地を張ることすら困難になって、俺はその場に崩れ落ちた。
「酷い熱じゃないか。何故黙っていた」
「……俺も今気付いたし」
ぜーぜーと息が切れる。それすら堪えられなくなりつつも言った言葉はほぼ嘘だった。
だって、それがばれてしまえば、彼女はきっと。
「言わんことない。だからあれほどベッドを使えと言ったのに」
言うと思ったよ。だからどうにかやり過ごそうと思ったんだが、それにはさすがに熱が上がりすぎた。朝の時点では、大人しくしてればなんとかなると思ったんだけどな。しかしこの分じゃ、今夜からは俺の言い分は通らなそうだ。それでも一応は抵抗してみる。
「でも、そしたらエドワードが風邪を引いていたかもしれないじゃないか」
「生憎だが、そんなヤワな鍛え方はしておらん。私は病で倒れたことなどない」
……さいですか。なんとも逞しい。
俺だって別に病弱じゃないけど、年に一回くらいは熱を出す。そしてそのたび、馬鹿でも風邪引くのねーと姉ちゃんに野次られる。確かに俺は馬鹿だけど、だったら風邪を引かない特典くらい欲しくて、これでも体を鍛えてるつもりだ。でもやっぱ彼女のそれとはレベルが違うんだろうとは思うけど。
抵抗する術を失くした俺は、黙って彼女の肩とベッドを借りる以外の道も一緒に失くした。それ以降は、術があっても実行できないくらいに衰弱してしまった。食事も受け付けないし、声を出そうと思えば咳が出る。こんなに酷いのは、さすがに小さい頃以来か。とにかく寒くて気持ち悪い。
でも悪化するのも無理はない話だ。
元の世界なら、調子が悪ければ医者に行き、注射の一本でもして薬を飲んで、あったかくして寝てればそうそう何事もない。
けどここに病院はない。医者がいるのかどうかは知らないが、いたところで、魔女疑惑のかかった俺を果たして真摯に診てくれるかどうか。薬は、熱さましの効果があるっていうものは貰ったけれど、効果の程は謎だ。今のところ効いてはいない。そして、何より寒い。
エドワードの分の毛布まで使ってるのに全く温かくない。当然だけど、ここにはエアコンもストーブもない。
家なら、その両方ある。母さんが消化にいいもの作ってくれて、野次りながらも姉ちゃんが水とか持ってきてくれたりする。
そんな環境に改めて感謝したことなんてなかったけど、俺は随分恵まれた場所で暮らしてたんだな。こんなときになってそれを思い知った。
夜も更けて、寒さはますます厳しさを増す。
――ここは寒い。
帰りたい、な。
温かい家を、朦朧とする意識に思い描いたそんなとき。
実際に体が温かくなった気がした。
幻想で温かくなるなんて、いよいよ俺はやばいのか――、そう思いつつも温もりは心地よく、ようやく深い眠りに落ちることができた。
夢ひとつ見ない、真っ暗で深い眠りのあと。
気がついたら、すでに明るかった。朝になったせいか、それとも熱が引いたのか。あんなに辛かった寒さはもうなくて、ベッドの中でほっと安堵の息を吐く。ピークは過ぎたみたいだ。
そうすると、多分昨日はソファで寝たのであろう、エドワードのことが気になった。昨夜は人を気遣う余裕もなかったけど、今日はもう大丈夫だ。慌てて彼女を探そうとして――そこで俺は凍りついた。
「……な、ななななっ、」
なんで、と。誰に聞いているのかなんの意味があるのかわからない言葉を繰り返し。そんな俺の声で、群青の瞳がうっすら開いた。俺の、ほんのすぐ、真横で。
温かくなったのは、幻想でも気の所為でもなかったらしい。けどその温もりの正体を知って、引いたと思った熱が一気に沸点を越える。ほんの僅かエドワードが動き、それだけで額に彼女のそれが重なる。もともとそんな距離だったのに、これ以上距離を縮めないでくれ。そんな俺の叫びは表に出なくて、通じてくれない。
「良かった。引いたな」
間近で微笑む彼女を、俺は思わず跳ねのけてしまった。随分な態度だと自分でも思うが、余裕がないので仕方ない。
「無理をして起きるな。まだ少し熱い」
なのにそんな俺の態度にもかかわらず、その声は笑いを噛み殺していた。だからきっとバレている。その熱は多分、風邪のせいじゃないって。
「……水」
酷く無愛想な俺の声に、エドワードは返事をしてベッドを降りると、くすくす笑いながら部屋を出ていった。扉の閉まる音に、ようやく俺は息を吐き出す。呼吸すらどうやってするのか忘れてた。
――ここには何もない……なんてことは、なくて。
ベッドにはまだ温もりがある。それはきっと、エアコンよりストーブより温かい。
医者も薬も、栄養のあるご飯がなくても、この世界も悪くないなんて思うあたり、俺はとっても現金だ。すっかり軽くなった体を動かしながら苦笑を零す。
戻ってきたら、礼を言わないといけないな。
そんなことを思う俺の耳にはもう、小走りにこちらに近づいてくる足音が聞こえていた。