第八話 運命を壊す者



 その後、またもリディアーヌを名乗る者が兵を上げ、すぐにエレオノーラは前線へと戻ることとなった。
 しかし彼女は、内心そのことにほっとしていた。
 戦は好きではない。純粋に剣術なら嫌いではないのだが、敵兵とは言えど人を斬ることには慣れなかった。ただ、共に戦う部下を死なせることがそれ以上に耐えられなかっただけだ。全ては国と家のためと、そう割り切って戦ってきた。しかし、その道の行きつく先など考えたことはなかった。だから、父がその先に女性としての幸せを用意しようとしてくれたことは素直に嬉しい。なのに父に会うのもレインハルトに会うのも苦痛で、城には居たくなかった。
 どれほど封じても、やはり心のどこかには捨てきれぬ女性としての感情がある。着飾り、恋をする女性たちが眩しく見える。だから決して悪い話ではないと思うのに、逢瀬の度に感じるのは、こんなものかという虚しさだけなのだ。
 その理由を、血に塗れた手と傷だらけの身体では、もう女としては生きられないのだと片付けた。
 ならばいっそのこと、黒太子として戦場で果てられればいい。
 そんな諦めにも似た覚悟でリディアーヌ討伐へと向かったが、死に場所を探しているうちにその戦も一段落ついていた。
 第三のリディアーヌを打ち破り、あとはその残党を一掃すれば終わる。そこまで漕ぎつけて、まだ生き残っている自分にエレオノーラは絶望を覚えていた。
 何をしていても虚無感がつきまとい、軍議にも訓練にも身が入らなくなった。戦況が落ち着いてくると、次第にそれらのことは弟がするようになり、エレオノーラは部屋に篭ることが多くなっていた。
 今回の出陣にはライオネルも同行していた。止めたが勝手についてきたのである。だが強く止めなかったのは、何かしら心の支えがなければ立てないまでに追いこまれていたからだ。
 それなのに、世間は英雄黒太子などと持て囃すのだから、笑ってしまう。
 誰もいない部屋で、エレオノーラは一人、自嘲じみた笑みを零した。だが扉の開く音がして、その笑みを苦笑に変える。
「ノックしろと言っているのに」
「ああ……ごめん、姉さん」
「姉さんもやめろと……、本当にお前は成長しないな。成長したのは背丈だけだ」
「それは悪かった」
 苛々に任せてつい嫌味を零すと、皮肉めいた謝罪が返ってきた。それを聞き、自分の八つ当たりに気付いてエレオノーラは立ち上がって項垂れた。
「いや、私の方こそ済まぬ。私がするべきことを、お前に押し付けてしまって」
「いいんだ。何かしていないと、僕がここにいる意味がない」
「……ヴァスカーには戻らないのか」
 苦笑したライオネルに、ふとエレオノーラはそんなことを問いかけた。
 ここに来る少し前に、ライオネルは父王からヴァスカー地方の領主を命じられていた。領主を務めるにはライオネルは年若かったが、ヴァスカーは片田舎だ。ハーシェンの名があればどうにかなると、その一言で追いだされたと言ってライオネルは笑っていたが。つまりは、相変わらず剣を取らない次男を見限ったということだろう。しかし勘当ではなく、田舎とはいえ領土を与え、ハーシェンを名乗ることを許しているあたりが父らしいと思った。
「僕がいない方が、部下がうまくやるさ。それより姉さんの役に立ちたい」
「こんな血なまぐさいところ、お前には似合わんよ」
「姉さんにも似合わない」
 強い言葉で返され、エレオノーラは薄く微笑んだ。本当ならこんな危ない場所に弟を置きたくはないが、無理に帰せるほど今の自分に余裕もなかった。弟に弱いところなどは見せられないが、それでもその存在があるのとないのとでは全く違う。
「ありがとう、ライ」
「…………」
 謝辞を言うと、照れたように目を背ける弟を見てくすっと笑う。風貌からは残念なほど可愛げが消え去ったが、そういう顔は幼いころと変わらない。
「さて……、そろそろノイシスを片付けておかないとな」
 だがそんな微笑みは封じて、黒太子としての表情へと戻る。ここは最前線だ、甘えが許されてはいけないだろう。だが、ライオネルの方は照れた表情は消えたものの、どこか子供じみた表情はそのままだった。
「まだ本国から指示は来ていない。戦況はこちらに優位のまま落ち着いているし、ノイシスに残るフレンシア軍とてそう数はいない筈だ。急くこともないだろう」
 言っていることは間違ってはいないのだが、正論を口にする割に表情は弱い。そんな違和感に、エレオノーラは声を上げかけて、そしてやめた。
「――なら、お前に任せる」
 そして言おうとしたことと別のことを口にして、立ちあがる。
「どこへ?」
「見回りもかねて、外の風に当たってくるよ。すぐ戻る」
「――姉さん」
 前を行きすぎた姉を、ライオネルは咄嗟に呼びとめていた。だが足を止めて振り返る姉を見て、小さく首を振る。
「……いや。気を付けて」
 ああ、と短く答えて部屋を出て行く後ろ姿は、やけに小さくてふらりと消えてしまいそうだった。呼びとめたのはそれを危惧してのことだったが、もし姉がもうここに帰ってこないならば、その方がいい。
 逃げたいといえば、どれほど無謀でも連れて逃げた。だけど、そのような弱みを彼女は決して見せることはないだろう。
 そのことに少しの寂しさを感じながら、ライオネルは窓の外を見上げた。
 見事な満月だった。

 その夜、その月の下で、運命に翻弄された英雄はそれを壊す者と出会う。