第九話 月下の出会い
眩しいくらいの月明かりの下、エレオノーラは行く宛もなく愛馬を走らせていた。
夜風が頬を撫で、その冷たさはまるで針のように刺さったが、それが心地よかった。そんな刺激でもなければ、心が遠くに飛ばされてしまいそうだ。
ふと泣きたい気分に駆られたが、涙は出なかった。まるで凍りついてしまったように出てこない。泣き方を忘れてしまったようだった。誰かに縋りたかったが、弟にも、まして部下にも、自分の為に命を賭している者にそうすることはプライドが許さなかった。
結局、今のまま、流されて行くしかない。そのことに覚えるのは絶望だった。戦うことにも生きることにも意義を見出せず、戦場で剣を振るうたびに、思考も感情も麻痺していく。
あの日、兄の為に剣を取ったのは間違いだったのかもしれない。そんな風に考えてしまうほど心が疲れ果てていた。
そうしてぼんやりしていると、ふと目の前が暗くなって顔を上げる。いつの間にか森に差しかかっていた。
この森から向こうはフレンシア領――つまりは敵陣だ。戻らなければ。そう思うのに、手綱を握る手は動かない。
――何もかも、もうどうでもいいじゃないか。
頭の奥で誰かが囁く。その囁きを消したのは、人の声だった。
フレンシア兵かもしれない。そう思った瞬間、緊張が走る。
一体、自分は何をしているのだろう。一人敵地に侵入するなど、迂闊にも程がある。迂闊な行動は、部下や国までも危険に晒すことなど、解っていた筈なのに。
だが、手綱を引きかけた手は、聞こえてきた声が紡いだ単語に、止まった。
「黒太子の軍のものだな?」
はっとして声の位置を探る。
こんなところにヴァルグランドの兵が自分以外にいると思えないが、もしそうなら自軍のものがフレンシア兵に見つかったことになる。その末路は、想像に難くない。
見捨てることはできなかった。
声の方へと馬を向ける。声と種類と気配から察するに、相手は二人だ。ならば臆することはない。剣を抜き、馬を走らせる。そして二つの影をとらえざま、一拍置いてから勢い良く剣を振るった。その少し前にこちらに気付いた兵士たちは二人ともその一撃をかわしたが、それは計算のうちだ。無駄な殺生をする気はない。今は、捕まった部下を助けられればそれでいい。
「退け。我が名はエドワード黒太子(ブラックプリンス)。その名を知らず、死を恐れぬなら相手になろう」
その雷名は、一瞬で兵士たちの戦意を奪う。自分がその名にふさわしいと思ったことはないが、二つ名は何かと便利だとは思う。場合によっては口上だけで戦いを回避できるからだ。
目論見通り、フレンシア兵は大人しく退いて行き、その背を見送りながらエレオノーラは内心安堵しながら剣を仕舞った。正直なところ、今のように乱れた心で戦う自信はなかった。だがそんな心情は億尾にも出さずに馬を下りる。脅えきった瞳がこちらを向くのを、月明かりが照らした。
(違う……)
心の中でそう呟く。兵士は黒太子軍、と言っていたが、目の前にいるのは年端もいかぬ少女だ。確かに黒い衣服を着ているが、軍のものとは違う。誤解で殺されそうになっていたと知って、偶然にこの場を通りかかって良かったと思った。やっと、思考が正常に動き始めた。
「我が軍の者かと思ったのだが、違ったようだな」
刺激せぬよう、極力穏やかに問いかける。
少女は始め警戒を解かなかったが、根気強く話を続けると、やがて少しではあるが身の上を話し始めた。
曰く、記憶がなく、来た場所も行く先もわからないのだと。
目はおよぎ、言葉は幾度となく詰まり、その様を見ていると明らかに虚言のように思えたが、いっそそこまでわかりやすいとかえって正直な人間に見える不思議に、エレオノーラは頬を緩めた。昔、ライオネルが悪戯を隠していたときこんな様子だったななどと考える。
行く先がわからない、そんな言葉に今の自分を重ね、エレオノーラは少女に手を差し伸べた。
「ならば一緒に来るか?」
少女が手を取れば、砦に帰ろう。
血に塗れた場所に戻るのではなく、この子を救うために戻ろう。そんな理由をつけて。
そうして手を取った少女は、咲良と名乗った。