第七話 堕ちた英雄



 領土を失い、国王が負傷し、そして王子を病で失いながらも、ヴァルグランドを絶望が襲うことは無かった。
 エドワードに扮したエレオノーラが初陣を勝利で飾り、勢いづいたヴァルグランド軍は、そのまま一気にフレンシアへと攻め上る。そして第二のリディアーヌが戦場で果てた頃には、ヴァルグランドに黒太子ありと囁かれるようになっていた。

「お帰り、姉さん」
 一年ぶりに本国へと戻ると、再会するなり弟はそんな言葉を口にした。既に父王への挨拶は済ませて自室におり、他に人の姿はなかったが、それでもエレオノーラは眉を潜めた。
「ライ……姉と呼ぶなと、言ってあったはずだ」
「でも姉さんは、二人のときはそう呼んでいいと言った」
「屁理屈を言うな、それはまた違う話だろう。全く、お前はいつまで経っても子供だ」
 だが、髪を撫でようと手を伸ばしてみれば、あることに気付いてエレオノーラはその手を止めた。
「……ずいぶん背が伸びたな」
「いつまでも子供じゃないさ」
 姉の手を取っておろさせ、苦笑するライオネルを見てエレオノーラもまた苦笑した。だがそれもすぐに消す。
「変わりはないか?」
「特には。イザベラも元気だし、父上の容体も落ち着いてる。……ただ」
 ふと、ライオネルは言い淀むように言葉を切った。目だけでそれを促すと、視線も外される。
「ただ、なんだ」
 仕方なく直接問うと、再びこちらを見たライオネルは、だがやはり言い難そうに口を開いた。
「このところ、よくレインハルトが来る」
「なんだ、そんなことか……、お前、まだレインハルトが嫌いなのか?」
 婚約の件はもう白紙だろうにと言いかけて、しかしエレオノーラは神妙な表情に戻った。
「……そうだな。こうなっては、イザベラがエンズレイに嫁がねばなるまい」
「いや、そういうことじゃない。それに、イザベラは嫁に行きたがってるようだし姉さんが気に病むことはないと思うが」
「行きたがっている?」
「『朴念仁の父上や弱っちい兄上より、エンズレイの殿方は魅力的』だそうだ」
 エレオノーラは一瞬きょとんとしたが、すぐに可笑しそうに声を上げて笑った。
「はは、逞しいな、イザベラは」
 ライオネルは面白くなさそうな顔をしていたが、エレオノーラはひとしきり笑っていた。それから、無造作に防具を外して椅子に腰を下ろす。
「なら、別にレインハルトが来ていても構わないじゃないか。父上も彼を気に入っていたようだし」
「それは――そうだが」
 ライオネルは尚も何か言いたそうにしていたが、それ以上何も言えないままにノックの音が会話を中断させる。エレオノーラの短い返事の後に現れた人物を見て、ライオネルは顔をひきつらせた。
「戻ったそうだな」
 甘いテノールを聞きながら、エレオノーラは葬儀の日を思い出していた。
 王家の葬儀とは思えぬほどの、小さく静かな式。その中で、ただ淡々とエドワードとして振るまっている間中、視線を感じていた。その主が誰か、想像がつくからエレオノーラは決してそちらを見なかった。
 ――欺ける自信のない者が、身内以外に一人いた。
「……久しいな、レインハルト」
 顔を上げないまま、あくまでエドワードとして答えると、レインハルトはぴくりと片眉を跳ねあげた。だがそれよりも気になるのは嫌悪感を丸出しにする弟の方だ。ライオネルは馬鹿ではないが、我を忘れれば何を言い出すかわからない節はある。
「ライ、お前はもう下がれ」
 その自覚はライオネルにとてあるのだろう。有無を言わさぬ声で言うと、不満そうにしながらもライオネルは黙って退室した。それを待ち詫びていたかのように、レインハルトが口を開く。
「それで、まさかこの期に及んでオレを欺けるとは思ってはいまいな? エレオノーラ」
 やはり――と。あの葬儀の日から危惧していたことが現実となり、エレオノーラは口を引き結んだ。だが表面上は平静を装う。
「何を言っている?」
 しかしその平静も長くは持たなかった。腕を掴まれ、椅子から無理やり引き上げられる。振り払おうとするが、力ではとても対抗できなかった。びくともしないその腕から、それでも何とか逃れようとしながらレインハルトを睨みつける。
「髪が伸びたな、エレオノーラ。やはり長い方がよく似合う」
「だから、違うと――」
 声は最後まで続かなかった。力尽くで腕を引かれたかと思えば肩を強く押され、ベッドの上に組み敷かれる。
「離せ!!」
「これが男の身体なものか」
 ありったけの嫌悪を込めて叫ぶが、レインハルトは歯牙にもかけない。勝ち誇ったように言い放つ。
「そんな大声を出して人が来たらどうする。こんな姿を見られてもいいのか?」
 もがくことも叫ぶことも封じられ、一切の自由を奪われたエレオノーラにできた抵抗は、ただ目を逸らさず睨みつけることだけだった。
「――こんなことをして、ただで済むと思うな」
「案ずるな。陛下には許可を頂いている」
 だが返ってきた言葉に、エレオノーラはその抵抗すらも失った。
「なんだと……?」
「オレはずっと、兄上からお前を奪うことだけを考えて生きてきた。その絶好のチャンスをオレが逃すとでも思うか」
 唇が触れそうなほどに顔を近づけられ、エレオノーラは反射的に顔を背けた。だが無理やりに塞がれる。強引で一方的な口付けのあと、己の唇を舐めながら、レインハルトは愉しげに笑った。
「名が売れすぎたな黒太子。ルゼリアに目を付けられる前に、陛下はお前をオレに委ねる決心をして下さったようだ。オレはやがて王都を離れるからな、お前を匿うにはまさに打ってつけだった訳だ」
 レインハルトが言葉を紡ぐたび、まさかと信じられなかった気持ちも、少しずつ壊されていく。その説明があまりに筋が通っていたからだ。反論できないエレオノーラを見て、レインハルトは満足そうに目を細めた。
「つまり、お前はオレのものになったんだよ、エレオノーラ」
「エレオノーラは死んだ!」
 麻痺しそうになっていた感情が呼ばれた名前に爆発する。
「そんなことは、オレが認めん。オレはずっと信じなかった。お前が死んだなんてことを、どうして認められる……?」
 悲痛な叫びに、始めてレインハルトの表情が揺らいだ。ぎらぎらと滾るようだったレインハルトの瞳が熱を失い、そしてそれと同時にエレオノーラは全身から力が抜けて行くのを感じていた。
 腕から外れた手が髪を撫でる。信じたくないほど、優しく、愛しそうに。
「お前はエレオノーラだ。お前が棄て、忘れたというならオレが思い出させてやる」
 何かを言おうと開きかけた唇は再び塞がれ、髪から滑り落ちた手が身体をなぞる。だけどそれが、やけに遠く感じた。
 全て、たちの悪い冗談のように思えた。父の命令も、兄の死も、戦の喧騒も、そして今この瞬間も。
 しかしこれが現実なら、父が決めたことには逆らえない。その術を、エレオノーラは知らなかった。
 生きながら葬られ、棄てることも許してくれない。なら結局自分は誰なのだろう。
 ただそんな答の出ない自問が、言い様のない虚脱感と共に頭の中を渦巻き続けていた。