32.最後の夜
その夜、俺は夢の中で走っていた。
いつも俺を呼ぶ声。その声の主を探して。
「リディアーヌ!」
その名は、俺を向こうの世界に呼んだ人の名前だ。そして、俺と同じ魂を持つ人の名前だ。今はもう――力を失い、消えてしまった人。でも、肉体は消滅しても、魂は俺の中にあるはずだ。
「随分、力をうまく使えるようになりましたね」
俺の考えを肯定するように、不意に傍でそんな声が上がる。振り向いても辺りを見回しても姿は見えないが、声だけはちゃんと聞こえた。
「けれど気をつけなさい。器を持つ身で力を使えば、いずれ器に影響を与えるでしょう」
「……わかってる。爺ちゃんからも聞いた」
そう答えると、突然目の前で光が弾けた。彼女が姿を現すのかと思ったが、光が模ったのは人ではなかった。
「そういえば、忘れ物ですよ」
集まった光が形を成して、俺の目の前に浮かぶ。それは向こうの世界で俺が使っていた刀だった。こちらの世界に帰ってくるどさくさで失くしてしまったと思ってたものだ。
「それは、あなたが戦う気になるのならと、わたしがあなたに贈ったものです。かなり無理をしたんですよ? それなのに、ついぞあなたは戦わなかった」
「あ……」
彼女の言葉に、懐かしい記憶がよみがえった。ヴァルグランドの武器庫には幅広の両刃剣しかなく、刀などないだろうと諦めていたときに、まるで俺に応えるように現れた刀。エドワードが見覚えがないと言ったのも道理だ。なぜこんなものが――日本刀が、あの世界にあったのかとずっと不思議だったけれど、今その疑問がすっとほどける。
「それほどまでにあなたは戦いを嫌うのに、またあの世界へ戻るのですか?」
「……うん」
手を伸ばし、刀に触れる。そしてしっかりと握る。
「こちらで力を使い続け、世界の理を歪め続ければ、俺の体は遠からず滅んでしまう。それじゃ駄目なんだ。俺は俺のままで、彼女の傍にいたい。場所はどこでもいい。どんな未来でもいい。でも、エドワードがいないのは耐えられない」
刀を握った場所から、温かな光が溢れだして周囲を満たす。意識が覚醒に向かうのに気付いて、俺は目を閉じた。
「ごめんな、リディアーヌ。俺が力を使ったから心配して出てきてくれたんだろ? 俺はもう大丈夫だ。ちゃんと自分の心にも力にも、もう自分で向き合える。だから今度こそ、ゆっくり眠ってくれよ」
そして全てが光に溶けた。
でも、目を開くとまだ暗かった。窓の外は闇一色で明ける気配もない。けれど寝なおそうにも、頭はすっかり覚醒してしまっていた。起き上がろうと寝がえりをうつと、何か固いものを踏んでしまって、腰骨に鈍い痛みが走る。
なんだろうと手探りで掴んでみれば、その正体はすぐにわかった。ひとまずそれをそこに置いたまま立ち上がる。
無償にエドワードに会いたくなった。顔が見たかった。部屋を出ると、夜中なのにエドワードの部屋からは明かりが漏れていて、少しほっとする。でもだいぶ非常識な時間だ。訪ねてもいいものかどうかしばらく扉の外で悩んでいると、とつぜんガラリと扉が開いた。
「――――!!」
「静かにしろ、夜中だぞ」
驚いて叫び声を上げかけたが、エドワードに口を塞がれて止められる。しばらく俺はもごもごと唸っていたが、やがて落ち着きを取り戻して黙ると、エドワードは俺の口から手を離した。
「気配がしたから。どうかしたのか、こんな時間に」
「いや……ただ……」
顔が見たくて、というのはさすがに照れ臭くて言えない。黙っていると、エドワードはふう、と息をついて部屋の中に引き返した。
「……入るか?」
「う、うん」
ためらいながらも中に入る。扉を閉めたら急に心拍数が上がったけれど、今更出て行くのも変だ。エドワードがクッションに腰を下ろすのを見て、俺はその場に正座した。
「そんなところに座らなくても、こっちに……」
「いや! ここでいい」
エドワードの誘いを断り、俺は床の上に鎮座したまま動かなかった。真夜中に二人きりのシチュエーションはそれだけで俺には刺激が強すぎる。これ以上距離を縮めるのは過酷である。
そんな俺をエドワードはしばらく何か言いたげに眺めていたが、開きかけた口を閉じ、沈黙が流れた。
部屋の中は静かで、なんの音も聞こえない。でも突然エドワードが立ち上がり、置いてあった紙袋に手を突っこむ。がさがさと紙袋が音を立てて静寂を裂いた。
その紙袋には見覚えがあった。確か父さんから渡されたものではないだろうか。思った通り、彼女が取りだしたのは制服だった。
「……って、え!?」
思わず叫んでしまったのは、これまた突然に、エドワードが着ていたパジャマを脱ぎ捨てたからだ。大いにうろたえながらも、反射的に座ったまま回れ右をする。
「ちょっ、あの、何を……」
「いや、ちょっと着てみようかと思って」
「だ、だからって突然……! 着替えるなら着替えるって言って……!」
「なにを今更。初対面で人の着替えを覗いておいて」
「わざとじゃないだろ!」
笑いを含んだ声に、思わず叫ぶ。
確かにそうだが、そのときはエドワードのことを男だと思っていたし、それに断じて着替えを覗こうとしたわけじゃない。エドワードだってそんなことわかっているだろうに、すぐこうやってからかう。それにしたってもう少し時と場合を考えて欲しい。
ぱさりと、服が落ちる音ひとつにいちいち反応する鼓動をおさめていると、エドワードの困った声が耳に届く。
「……これは、どうやって結べばいいんだ」
多分、パータイのことかな。ということは、もう服は着てるってことだよな。着替える音もしなくなっていたが、おっかなびっくり振り返る。制服をまとい終えたエドワードが、案の定パータイを結ぶのにてこずっていた。
俺は立ち上がると彼女の傍まで行き、彼女の手からパータイを取ると、一般的なリボンの形に綺麗に結んであげた。
「器用だな」
「昔、姉ちゃんにやらされてたから」
姉ちゃんは死ぬほど不器用なので、綺麗に結べとよく頼まれた。そういう訳でこれくらいは朝飯前だ。慣れた手つきでパータイを結び、改めてエドワードを見ると、黒のセーラーが死ぬほど似合っていて息が止まった。
「……似合うか?」
ただただ頷く。言葉も出ない。でも、満足そうにエドワードは微笑んだ。
「黒というのがいいな。やはり、落ち着く」
確かにエドワードには黒がしっくりくる。でもそれは見慣れているせいもあるだろう。白やピンクを着ても可愛いと、俺は思うけれど。
「……エドワードは、何を着ても可愛いよ」
「は、恥ずかしいことを真顔で言うな」
珍しくエドワードが照れたように目を背ける。言われてみれば、相当恥ずかしいことを言ったな……よく考えてから喋ろうと決めたばかりなのに。でも、本当なんだから仕方ない。
狼狽するエドワードを見ていたら、爆発しそうだった心臓が少しずつ静まっていった。でも、胸の騒ぎは静まらない。高揚する気持ちは止まらない。……今なら、きっと邪魔は入らない。
少し朱の差す頬に触れると、群青の瞳がこちらを向いた。そのまま、そっと顔を近づける。
今度は、誰にも邪魔されることはなかった。でも、邪魔されても今度は止まれなかったと思う。緊張に震える手を誤魔化すように髪を撫でる。それは凄くぎこちなかったと思うけれど、エドワードは甘えるように頭を胸に寄せてきた。
「背が伸びたな……咲良。前は小さかったのに」
結んだばかりのパータイをほどきたくなる衝動を必死に堪えていると、ふとそんなことを言われて、俺は少し肩を落とした。
「小さくない。同じくらいだったよ」
「そんなことない。私の方が高かった」
俺の胸に頭をくっつけたまま、エドワードは前言を翻さない。確かに、出会った頃は少しだけ――ほんの少しだけ、俺が負けていたかもしれないけど。でも、同じくらいだった目線は、いつの間か下を向くようになっていた。
「男はずるいな。そうやって、いつの間にか置いて行ってしまう」
「……置いていってない。置いて行こうとしてるのはエドワードの方じゃないか」
そう言うと、エドワードは気まずそうに視線を逸らして俯いた。言葉を継ごうとする俺を見て、わざとだろう、それを遮るようにエドワードが口を開く。
「これを着て、君と一緒に生活できたら、きっと楽しいだろうな」
「うん……」
「……そしていつか、君と家庭を築くことができたら、どんなに幸せだろうか」
「俺も、そうしたい」
でも、エドワードは引き寄せようとした俺の手から逃れて、悲しそうに微笑んだ。
「済まない、咲良。いつか来る別れに脅えるのも、君をこの温かな家族から奪うのも、私は耐えられそうにないんだ……」
そして最後に、触れていた手が離れた。