最終話:悠久の朝



 一人部屋に戻った俺は、リディアーヌがくれた刀を拾い上げていた。
 心は決まっていたし、迷いはなかった。
 階段を下りて行く足音が聞こえて、咄嗟に学ランをひっかけ、部屋を飛び出す。
 もう行ってしまったかと思っていたけど、階段を下りると、エドワードはまだ玄関に居た。居たのはエドワードだけじゃない。母さんも、父さんも姉ちゃんも、皆起きていた。だからエドワードは、出て行けなくなっていたんだ。
「……どうして……」
 玄関の扉を押そうとした格好で、エドワードが掠れた声を漏らす。
「エル、無理してたから。行ってしまうつもりなのかなって思っていたの」
 応えたのは姉ちゃんだった。エドワードが母さんへと視線を移すと、母さんも項垂れる。
「エルちゃんの心が安らげる家族になれたらいいなと思ってたんだけど……やっぱり、駄目だったかな」
「……違う。違います」
 母さんの呟きに、エドワードは扉に手をかけたまま、だけどはっきりと首を横に振った。
「私には母も姉もいないから、家族に甘えたこともなかったから……、本当の母と姉のように思っていた。とても温かで、怖いくらい幸せで……、でも、だからこそ、こんなに温かい人達から、こんなに幸せな家庭から、私は大事なものを奪いたくない……!」
 エドワードが首を振るたび、彼女の足もとに雫が落ちる。涙で濡れた顔をこちらに向け、エドワードは顔を上げると、俺達一人一人に視線をあてた。そして最後に、深々と頭を下げる。
「こちらで過ごした温かな時間、ずっと忘れません。……ありがとうございました」
 今度こそ、扉を押して、エドワードが出ていく。シホウが、わんわんとさかんに吠えている。
 誰も何も言わなかったし動かなかった。それは、突然の別れに困惑しているのもあるだろうけど……きっとこの先を予感しているから。そんな気がした。それは、これから俺が、重大なことを言わなければならないのだと、その覚悟をしていたせいもあるかもしれない。学校をやめるとか、今度はそんな程度じゃすまないくらい、大事なことだから。
 静かな場に、俺が座ったことによってがしゃりと刀が音を立てる。その音に、父さんも母さんも姉ちゃんも、俺を見る。それを確認してから、俺は床に頭を打ち付けるくらいに頭を下げて、土下座した。
「父さん、母さん、ごめん! 俺……」
「駄目!!」
 最後まで言う前に、母さんの悲鳴のような声が俺の声を掻き消した。
「そんなの、許せるわけがないじゃない!!」
 聞くのを拒否するように、母さんが両手で耳を塞いで激しく頭を振る。そして、片手を振り上げた。叩かれるかもしれない。そう思いながらも、俺は避けることも受けることも考えず、ただ母さんをまっすぐ見ていた。
「……母さん。俺知ってるよ。父さんの赴任が決まったとき、泣いてただろ。たまにしか会えなくなるのが悲しかったんだろ? いつも、暇ができれば会いにいって、それを何より楽しみにしてるのも、知ってる」
 振り上げられた母さんの手は、だけどそれ以上微塵も動かず、ただ宙で止まっている。
「一生会えなくなるって考えてみてよ。その方が母さんにとって幸せだって言われて、別の人と一緒にいればいいって言われて、それ受け入れられるか、考えてみてよ」
「…………ッ」
 母さんの手が震えていた。その手を、父さんの手がそっと掴んで、下ろさせる。
「……行きなさい、咲良」
 父さんの言葉に、驚いて顔を上げたのは、母さんや姉ちゃんだけじゃない。
 俺自身が、一番驚いていた。
 呆気に取られたような俺を見下ろし、父さんは俺の頭を撫でようとした。だけど、手が頭に触れる前に、父さんはその手をひっこめた。
「父としてなら、力尽くでも行かせない。だが、お前はもう子供じゃない。だから男として話す。行け、咲良」
「子供よ! まだ、たった十七歳じゃないの!!」
「僕もそう思っていた。でも、大人かどうかを決めるのは歳じゃない。環境と経験だ」
 激昂する母さんをなだめるように、父さんは冷静な声を上げる。それはどっしりと重く、厳しく、そして温かな声だった。
「自分で決めて歩んだ道に自分で責任を持てるなら、お前は大人だ」
「父さん……ごめんなさい。親不孝で」
「一番の親不孝は、お前が不幸になることだよ、咲良。幸せになれると思う道を行け。そして幸せになれ。それが子供が親にできる、一番の孝行だ」
 後から後から涙が溢れて止まらない。
 俺、この家に生まれてよかった。きっと、普通に生きてたら、そんなこと一生思わなかった。幸せだなんて、こんなにも強く感じなかった。
 止まらない涙を、それでもぐいと拭って、俺は立ち上がった。

「行ってきます!!」

 玄関の扉を開けて、一度だけ振り返る。
 十七年、生まれ育った家と家族の姿を強く瞳に焼きつけて、そして俺は――明け始めた外へと駆けだした。
 背中でシホウが、一度だけ鳴いた。

 外に出たとき、既にエドワードの姿はなかった。でも、どこに向かったのかは見当がついている。直感に任せて、俺は学校へと走った。閉じている校門を乗り越えて、非常階段から屋上へ上がる。
 俺が異世界へと呼ばれた場所。そして、エドワードを連れて帰ってきた場所だ。
「エドワード!!」
 呼ぶと同時に、凄まじい光の洪水が屋上に巻き起こった。
「咲良……!?」
 その中央で、エドワードがこちらを振り返る。そして、俺に気付くと拒むように後ずさった。
「来るな! 君は、来てはいけない!」
 足を止めない俺を見て、彼女は尚も言い募る。
「怖いんだ……! 何度も夢に見た。君を戦いに巻き込んでしまう夢を。あの世界に君を連れて行くのは嫌なんだ……だから頼む、来ないでくれ!」
「嫌だ。どうしても置いていくって言うなら、俺を斬ってからにしろ!」
 光の勢いが強まる。遠ざかろうとするエドワードに駆け寄って、俺は持っていた刀を突きつけて叫んだ。エドワードが、後ずさる足をようやく止めた。
「言っただろ。あんたがいない未来は要らない」
 少しずつ、距離が縮まる。今度こそ、俺は手を伸ばして彼女の手を掴んだ。
「エドワード、俺は約束を守るよ。例えどんな世界に行っても、俺は誰も傷つけない。だからエドワードも約束して」
 そして、その手を引き寄せる。
「自分自身の幸せを諦めないって。俺のためや周りのためじゃなくて、自分のことだけ考えて決めて。そうしたら、俺はそれを叶えるから!」
「……私は」
 迷うように呟くエドワードを抱きしめて、俺は黙ってその続きを待った。今なら信じられる。違う世界にまで一緒に来てくれたエドワードの気持ちを信じて、ただ待った。
 やがてエドワードの手が背中にまわり、ぎゅっとその手に力がこもる。
「私は、咲良と一緒にいたい……!」
 全ての景色が光に沈む。
 すごくたくさん回り道をした気分だけど、でもきっと、ここに辿りつくにはぜんぶ必要なことだったんだと思う。
「ずっと一緒にいよう。大好きだよ、エル」
 この光が消えたとき、そこに何が待っているのか、確かなことは何もない。でも、不安などなかった。もう、この手が離れることはない。ただそれだけ確かなら。

 光は少しずつ薄くなり、世界が俺達を出迎えようとしていた。