27.女心と春の花



 こちらに帰って来たばかりの頃、俺はエドワードがふといなくなってしまうんじゃないかってずっと怖かった。
 でも、月日が経って、家の中に彼女がいる風景が当たり前になって、そんな恐怖は少しずつ薄くなっていった。でも無くなったわけじゃない。忘れていただけなんだ。
 あの光を見たとき、俺はそれを痛い程感じた。思い出しただけじゃない。何十倍にも、何百倍にも大きくなった。
 エドワードが当たり前のようにそこにいても、いくら考えすぎだと自分に言い聞かせても、もう耐えきれなくなっていたんだ。

 驚いたように振り向く彼女に構わず、そのまま手を引っ張って自分の部屋に連れていく。そして扉を閉めると、俺は彼女の両肩を掴んだ。その勢いが強すぎてエドワードがよろめき、その背が扉を打つ音がする。けれど、それに構う余裕もなかった。
「今夜は一緒に寝る」
「……は?」
 俺はもう、もう一瞬離れることすら怖い。でもエドワードは戸惑ったような声を上げただけで、何の返事もくれない。そのことに苛立って、肩を掴む力も加減できなくなった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「待てない。あんたが嫌でも、もう我慢できない」
「い……嫌ではないが。だが急にどうしたんだ、咲良。酔ってでもいるのか?」
 この後に及んでそんな風に茶化してくる彼女に、ついに苛立ちが爆発した。
「そんなわけないだろ! むしろなんであんたはそんなに冷静なんだ。昨日のこと、忘れたわけじゃないだろ? またあの光が出てきたらどうするんだよ。二度と会えなくなってもあんたは平気なのか!?」
 ついそんな風に責め立ててしまった。だって、会えなくなるかもしれないって思って、こんなにも切羽詰まっているのが俺だけなのがなんだか凄く虚しかったのだ。俺がいないと駄目だって言ってくれたことにあんなにも舞い上がっていた自分が凄く滑稽に思えた。
 なのに、ここまで言っても彼女に焦るような色は見えず、それどころか拍子抜けしたように片手で前髪をかきあげた。
「ああ、なんだ……そういうことか……」
「な、なんだってなんだよ!? 俺は……ッ」
「いや、そういう意味ではなく……、とにかく少し落ちついてくれ。痛い」
 肩の手に触れられて、ようやく全力で掴んでいたことに気付き、慌てて俺は手を離した。
「ご、ごめん」
 咄嗟に詫びはしたものの、でも気はおさまらない。そんな俺を見て、エドワードは気まずそうな顔で咳払いをした。それから気を取り直したように声を上げる。
「何度言えば満足だ。会えなくて平気なら最初から追わぬ」
「だって……、今日、なんかおかしかったじゃないか。服だって、姉ちゃんと話してるときだって……、本名のことだって。もう会えなくなるからあんな風にしてるんじゃないかって、もう覚悟決めてるんじゃないかって思って……」
 不機嫌な声で問い詰められたら、一気に形勢が逆転してしまう。俺がしどろもどろになりながら答えると、彼女はため息をついて俯いた。
「……違う。逆だ。今までは、いつか別れがあるかもしれないから距離を置いていた。けれど昨日のことがあったから、気付いたんだ。私はこの世界が……、君の家族が好きなんだと。だから変な意地を張るのはやめた。それだけだ」
 それを聞いて、今度は俺が息を吐き出す。今日一日つかえていたものが、やっと胸を下りた。そんな感じだった。
 とはいえ、気になることは他にもある。
「じゃ、なんで俺には呼ばせてくれないのに、先輩にまで本名を名乗るんだよ?」
「呼ばせなかった覚えはないが……あれは……」
 そこで何故かエドワードは口ごもる。しばらく妙な沈黙が流れたけれど、諦めたように再び彼女は息を吐いて顔を上げた。
「昨日の昼のことは、済まなかった。……嫉妬していたのは私の方だ。彼女にだけは、男だと勘違いされたくなかった」
 小さな詫びのあと、それよりさらに小さな小さな声は、でも俺と彼女しかいない静かな部屋の中で、聞き逃す筈もなかった。
 咄嗟に理解できなくて何も言えない。でも、嫉妬ということは、つまり……、エドワードが先輩に嫉妬して、女だということを知らせる為に本名を名乗って、勝ちの見えてる勝負をふっかけたってことか? それって、つまり……。
 やばい。やばいくらい顔が熱い。
 何も言えなくて、また沈黙が流れる。静かになったら困る。心臓が爆発しそうな音がばれる。
 慌てて言葉を探している間に、エドワードが先に声を上げる。
「咲良、私は……、本当は、君の未来を全部潰してもいいから、君の傍を離れたくないと思っている。そんな自分勝手な私でいいのなら……、またあの光に浚われそうになったなら、君を呼ぶから。だから……手を離さないでいて欲しい……」
 指先に何かが触れる。それが彼女の指先だと分かって、俺はその手を握り締めた。
「良かった」
「……え?」
「勝手なんかじゃない。俺の為に傍を離れるって言われるより、俺はその方が嬉しい」
 エドワードは答えなかったけど、きゅっと手が握り返された。けど、それを引き寄せようとすると、するりと手が離れていく。
「ではそういうことで、お休み」
「え、エドワード?」
 また急に不機嫌な声に戻られて、戸惑いながら彼女を呼ぶと、扉を開けながらエドワードがこちらを首だけで振り返った。廊下の灯りに照らされた彼女の顔は、笑顔でもなく、からかうようなそれでもなく、例えるなら……どこか拗ねたような顔。
「……それとも、一緒に寝るか?」
 そう言われて、やっとさっき自分が何を言ったのかを思い出す。
 何か、俺は、物凄いことをやってしまったのではないだろうか。
 冷静にひとつひとつ思い出してみれば、その都度いちいち頭が爆発しそうになって、穴掘って埋まりたい気分になった。
 けれど扉が閉められそうになって、慌てて扉に手を差し入れる。
「待って。その……、俺もエルって呼んでいい?」
 そう聞いてみると、エドワードは再び振り返ってにこりと笑った。
 ただし、屈託のない笑みではない。むしろ屈託のありまくる、目は全然笑っていないなんだか凄惨な笑みだった。

「駄目」

 そんな笑みで一言言い残し、強引に扉が閉められて俺は慌てて手を引っこ抜いた。
 無情な音を立てて扉が閉まり、俺は真っ暗な部屋に一人虚しく残されたのであった。