26.変化と戸惑い



 気がついたら朝だった。
 安物のカーテンを通り抜けて陽の光が瞼を突き差し、目をこすりながら起き上がる。
 頭にもやがかかったようにぼんやりする。俺、いつの間に寝たんだろう。布団に入った覚えも、眠った覚えもないんだけど。
 朦朧とする頭でそこまで考えて――次の瞬間、俺は布団を跳ね飛ばして立ち上がっていた。
「エドワード!?」
 足がもつれて転びそうになりながら、ノックも忘れてエドワードの部屋の扉を開ける。部屋の中もベッドの中ももぬけの空で、全身から血の気が引いた。
「……ッ」
 叫ぶのをどうにか堪えて、俺はエドワードの部屋を飛び出すと足音荒く階段を下り、リビングの扉を開けた。
「エド……!」
「あ、咲良。おはよう」
 酷くのんきなエドワードの声に、切羽詰まった俺の叫びは掻き消された。
「咲良、朝食冷蔵庫に入っているから」
「もう昼だけどねー」
 エドワードだけじゃない。母さんも姉ちゃんも、何事もなかったかのように声をかけてくる。それはあまりにもいつもと同じ日常すぎて、昨日のことは夢だったんじゃないかと思えてきた。
 でも、何か違和感が拭えない。その正体を探ろうとすれば、すぐに理由が分かった。
「……エドワード、その服……」
 夏でも頑なに冬ルックスを貫いていたエドワードが、袖がない襟付きのシャツを着ていた。それだけじゃない。ミニスカートの下にはタイツを履いていないし、スカートは黒だがシャツは白い。
 そんな服装にいつものピンクのエプロンをつけて、母さんの見守る中、姉ちゃんと二人で何やら料理を作っている。
「似合わないかな」
「そんなわけないじゃん! エドちゃん美人だしスタイルいいし、何着ても似合うよ。傷なんか気にして地味な格好してるの絶対勿体ないって」
 俺より先に、手にしていた包丁をぶんぶん振り回しながら姉ちゃんがエドワードの言葉を否定する。どうでもいいが危ない。
「それで街に出たら男の視線独り占めだねー。あっ、そうなったら咲良君は困っちゃうのかなー」
「なっ……! ばッ、」
 何か含んだ目でそんなことを言う姉ちゃんに、思わず馬鹿、と言いかけて慌てて俺は口を噤んだ。今の姉ちゃんの前でそんなことを言ったら包丁が飛んできかねない。一瞬姉ちゃんはぎろりと俺を睨んだが、どうにかそれだけに止めてくれる。
「で……何してるの?」
 とにかく、夢であろうが夢なかろうが、エドワードが消えてないならそれでいい。エドワードがいつも通り笑ってそこにいるとに安堵すると、俺は三人に向かってそう尋ねてみた。
「何って、昼ごはん作ってるの。今日あたし仕事休みだし、たまには手伝おうと思って」
 そう言いながら、姉ちゃんが置いてあった野菜をざくざくと乱雑に切り始める。
「あ、楓さん。できればもう少し細かく……」
「あー、ごめんごめーん」
 エドワードの指摘に、姉ちゃんがペろ、と舌を出す。そんな仕草が可愛い歳でもないだろうに、というのはもちろん口に出さない。出せば俺はあの野菜と同じ末路を辿るのだろう。とか考えていたらふと姉ちゃんが手を止めたので、心の声でも聞こえたのかと思って慌てるが、無論そのような超現象ではなく。
「前から思ってたんだけど、あたしにさん付けしなくていいよ。普通に楓でいいし。咲良と話すときみたいに気楽に喋って欲しいなー」
 包丁を置いて、姉ちゃんがそんな声を上げる。
 前は片言だったけど、敬語を覚えてからは、エドワードは俺以外にはそっちで話す。俺も一時期敬語を使われたことがあったけど、凄く微妙な顔をしてしまったからか、すぐにやめられた。
「あとね、リツカに聞いたんだけど、エドちゃんって本当はエレオノーラっていうんだね。ねぇ、そっちで呼んじゃだめ? すごくエドちゃんに合ってる名前だと思うんだけど」
「あ、それは……」
 なんとなく今までのやりとりで、エドワードは本名で呼ばれたくないような気がして口を挟む。でもエドワードは視線だけで俺の言葉を遮って姉ちゃんに頷いた。
「わ、やった! じゃあ、エレちゃん? エリーちゃん? あ、嫌じゃなければあたしも呼び捨てていい?」
「昔、母上や兄上にはエルと呼ばれていた。差し支えなければそう呼んでくれ。……こんな話し方でもいいか、楓?」
 エドワードがそう言って頬笑むと、姉ちゃんもぱぁっと顔を輝かせた。
「うん!」

 ■ □ ■

 ……何かがおかしい。
 結局それからも、エドワード達は雑誌を見たりテレビを観たりと、女三人で盛り上がっている。とてつもない疎外感を感じて、俺は朝食と昼食を半ば自棄食いのように腹におさめて、自分の部屋でごろごろしていた。
 気にし過ぎだろうか。今まで以上にエドワードと姉ちゃんが仲良くしているのが、かえって不自然に感じる。しかも、昨夜あんなことがあったばかりだというのに。
 それとも――本当に全部夢だったのだろうか。
 本気でそう思ったけれど、寝がえりを打ったら床に落ちたカッターが目に入った。
 ……やっぱり、夢じゃない。
 あの光の眩しさも、エドワードの声も、掴んだ手の感触も、こんなにもはっきりと覚えていることが夢なわけがない。だとしたらエドワードは、もしかして別れを覚悟して、姉ちゃんや母さんと残り少ない時間をわだかまりなく過ごそうとしているんじゃないだろうか。
 その考えに行きついたら、夕食の用意をするのも、それを食べるのも、聞こえてくる明るい会話も、全部その為じゃないかって思えてきた。今まで名乗ることのなかった本名で呼ばせているのも、頑なに着なかった服を着ているのも、全部。
 彼女なりの別れの挨拶じゃないのかって、思った。
 だけどそれを確認しようにも話を切り出せなくて、全員風呂も出てリビングでくつろいでいる中、俺は悶々としながらも一人自分の部屋へ足を向けた。けれど、追ってくる足音に気付いて立ち止まる。
「エドワード……」
 語尾が上擦った。
 さっきから視界に入ってはいたけど、パジャマも夏物の半袖だった。ズボンの丈も膝上であとは素足だ。しかも姉ちゃんのを借りたっぽくて色はピンクでフリルだらけだし、おまけに少し寸足らずでなんというか、ちょっとエ……いや、何を考えているんだ俺。
「昨夜はあまり眠れなかったから、今日は早めに休もうと思って。お休み、咲良」
 けどそう言って部屋に入っていくエドワードの後ろ姿を見たら、そんな脱線した思考は一気に飛んだ。昨夜のことを匂わせといて、なんでもなくお休みなんて言うエドワードに胸がなんだかもやもやした。
 部屋の扉が閉まったら、そのまま二度と会えなくなりそうで、怖くなった。
「……ちょっと待てよ!」
 気がついたら声を荒げて、俺は彼女の腕を掴んでいた。