28.大きな支え



 遠くで誰かに呼ばれている。――また、この夢だ。
 呼ぶ声に耳をすませば、やっぱりそれは姉ちゃんの声ではなかった。いや、家族のうちの誰でもない。
 でも、知っている声だ。

「……リディアーヌ! リディアーヌなんだろ!?」

 無意識に伸ばした手が何かに触れ、俺は思い切りそれを掴んだ。
 そして、太くてごつごつしたそれを、手離さないよう強く――、

 ……え? 太くてごつごつ……?

「おはよう、咲良」
 腹に響くような低音が眠りを妨げる。目を開くと、予想もしなかった顔が目の前にあって、眠気が一気に吹っ飛んだ。
「父さん!?」

 朝食のいい匂いと共に、母さんの上機嫌な鼻歌がキッチンから聞こえてくる。姉ちゃんはもう仕事に行ってしまったらしい。食器が片付けられていた。
 その食卓に着く前に、俺は改めて久しぶりに会う父さんを見上げた。
「帰ってくるなんて聞いてなかったし、びっくりしたよ。いつまで居られるの?」
「ずっと帰りたかったんだが、仕事の都合がつかなくてね」
 父さんの大きな手が、俺の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。これをエドワードにやられるとなんとも複雑なのだが、父さんだと素直に心地いい。
 そして、父さんが居てくれるというだけで力強かった。昔からどんなに母さんに叱られて、姉ちゃんにボコスカにされようと、父さんだけはいつも俺の味方をしてくれたから。だから、これから俺が言おうとしていることだって、父さんならきっと無碍にはしないだろう。
 だから俺は、父さんとの積もる話や、食卓につくのは全部後にして息を吸い込んだ。後になればなるほど言いづらい。でももう決めたことだ。後回しにしたって仕方ない。父さんの大きな手に力を貰った今のうちに、俺は昨夜固めた決意を口にした。
「父さん、母さん。俺、学校やめる!」
 頭を撫でていた父さんの手が止まり、そしてキッチンから聞こえていた鼻歌も止まる。
 自分でも馬鹿なことを言っているのはわかる。でも、もう夏休みも終わりだ。俺がいつもあの光を消せるかどうかはわからない、でもいないときにまたあの光が出てきたらと思うと、とても授業なんか聞いてる気分にはなれなかった。
 俺のそんな決意は、両親にとってあまりに突然だったはずだ。何言ってるのと怒鳴られるか、溜め息をついて流されるか。どちらかだろうと覚悟すると、母さんが手を拭きながらこちらを向いて、そしてふうとため息をついた。
 でも、その後に続いた言葉は、予想とは少し違って。
「言うと思ったわ」
「すみれの予想通りだな。さすが母親だね」
 そんな会話を交わし、母さんは苦笑いして父さんは「はは」と声を出して笑った。
 絶対こっぴどく叱られると思っていたので、意外な赦免の空気に拍子抜けしてしまう。
「えっと……、じゃあやめていいの?」
 半ば呆けながらそう確認してみると、その途端母さんの苦笑いから笑みだけが消える。要するに、苦い顔――というか、渋面になる。
「そんなわけないでしょう」
 ぴしゃりと言われ、俺はうっと言葉を詰まらせながら後ずさった。まあ、そうだよな……。
「あなた世の中舐めてる。中卒で、どうやって人一人養いながら暮らして行く気?」
「そ、それは……何かしら仕事探して……」
「そりゃ何かしらはあるでしょうけど、間違いなく苦労するわ。それであんたが苦労するのを見て、エルちゃんは幸せだと思うかしら」
「う……」
 きっと気に病むだろう。昨夜は俺の未来を潰してでもって言っていたけど、それがエドワードの望みな訳でないことくらいは分かる。でも、それでもそうしなければいけない理由が俺にはあった。
「でも……、でも、俺が傍にいてやれない間にエドワードは元の世界に帰ってしまうかもしれない! 学校に行ってる間にいなくなってしまうかもしれないじゃないか!」
「分かっているわ」
 ふと母さんが深刻な顔をする。そんな見慣れない表情に、思わず俺は続けて叫びたい衝動を飲み込んだ。多少は落ち着きを取り戻した俺を真っ直ぐに見詰め、けれどそこから視線を外すとどこか遠くを見つめながら、母さんが重い声を吐きだす。
「あなたを疑っていたわけじゃないけど、多分どこかで信じ切れてなかったのね。あの光を見て、そしてあなたがそれを消しちゃうのを見て、怖くなった。あなたがエルちゃんがいなくなってしまうんじゃないかって怖くなる気持ち、今はよくわかる」
 軽く握った母さんの指先が震えている。
 それを見ていると、こちらに帰れなくてもいいなんて安易に考えていたことが申し訳なくなった。エドワードが向こうの世界に戻ってしまいそうな事態になっているなんて、俺はずっと気付いていなくて、それをエドワードの口から聞いたとき背筋が寒くなった。あの光を見たとき、母さんはきっと同じ気持ちを味わったんだと思う。
 だからきっと父さんを呼んだんだろう。父さんの方を見上げると、頭の上から手をどかして、穏やかな顔で、でも真面目な声で父さんが話しかけてくる。
「話は大体聞いたよ。全部は飲み込めてないだろうけど、とりあえず……、仮に学校をやめたとしても、働きに出たらどっちみち傍にいられなくなるんじゃないか?」
「……あ」
 そりゃそうだ。それじゃ本末転倒だ。焦りすぎて冷静な思考ができてないことに、気付かざるを得なかった。
「学校にも行かず、働かずでは、今は良くてもいずれ困るだろう。父さん達もずっと守ってやれるわけじゃない。一人で暴走して迷惑をかけるくらいなら、最初から大人を頼れ」
 そう言いながら、父さんは足元にある紙袋を拾って差し出してきた。
「……?」
 この状況で差しだされるものの見当が付かず、怪訝に思いながらも中を見る。入っていたのは俺の通っている高校の制服だった。ただし、女生徒用の。
「コネを使って、学長に話しをつけてきた。留学というか、体験入学という形だから、まあこれもその場凌ぎだが……他の手を考える時間稼ぎにはなるだろう」
 俺はしばらく、制服を見つめたまま、ぽかんと口を開いて突っ立っていた。でも呆けていても仕方ないので、すぐに頭を起動させる。
「えっと……、つまり、エドワードと一緒に学校に通えってこと?」
「そういうこと。辞めるのが無理なら現状これしかないだろう。戸籍のことも、今役所で働いてる知人に色々相談してみている。何とか道を探してみよう」
「父さん……」
 ああ、なんか父さんが輝いて見える。俺が数ヶ月考えて考え抜いても行き止まりだったのに、父さんはあっさり壁を壊して道を作ってくれる。例えその先に霧がかかっているのだとしても、道がないよりずっとずっといい。進むという選択肢ができるのだから。
「で、その異世界のお嬢さんはどこにいるのかな? 会うのを楽しみにしていたんだけど」
 けれど、父さんの言葉で俺は唐突に現実に帰ってきた。
 とっくに起きてるものだと思っていたのに、そういえばリビングには姿がない。
「そういえば、今日も遅いわね。エルちゃん」
 心配そうに口元に手を当てた母さんを見て、一気に血の気が引いた。
 ――父さんが帰ってきたのに驚いて、考えられなかった。またあの光が現れたら俺を呼ぶと言っていたけど、呼ぶ間もなく連れていかれてしまったら?
 弾かれたように駆け出した俺は二段飛ばしに階段を登り、突き破るくらいの勢いでエドワードの部屋の扉を開けた。
「エドワード!!」
 ベッドの上の布団が動き、少しだけほっとしながらも、でも姿を見るまで安心できない。思わず我を忘れて梯子を登ると、それと同時に布団をのけてエドワードが起き上がった。
「咲良? そんなに慌ててどうし……」
 乱れた髪を撫でつけながら、エドワードの声は途中で止まった。その理由は分かっている。分かっているから、俺も何か色々停止している。
 元々サイズが――どこの、とは具体的には伏せるが――キツキツだったのと、恐らく薄着で寝たことがないから失念していたのもあるだろう。
 エドワードが着ていたパジャマは寝乱れているを通りこして思い切りはだけていて――、彼女の上擦った叫び声を聞きながら、俺はまたも梯子から転落して派手に後頭部を打った。